着ぐるみを脱ぐ日
今日は子供の小学校の秋期大運動会を覗いてきました。
あまり運動会で活躍するタイプの子ではないのだけれど、みんなと、楽しそうで良かった。
まあ、水面下ではいろいろあるのかもしれないけどね……^^;
🎃🎃🎃
子供のころの私には、学校は憂鬱な場所でしかなかった。
昭和後期の学校は『いいコ養成機関』みたいなもので、偏差値と生活態度で全てが決まる。
子供たちも、今どきの子供たちとは違ってタフでワイルドなので、大人しいタイプの子はすぐに標的になる。
親たちも当時は『いい大学に進学させてナンボ』の時代で、私の母もタフでワイルドだったので、結果として『弱さ』も『涙』も心のなかに押し込めたまま、私は大人になったのでした。
大人になってからもまだ続きます。
そういう教育というのはなかなか抜けないもので。
昔、心のなかに押し込めた『弱さ』や『涙』を創作に昇華しようとしていた私は、当時、一番近くにいた人に、こう言われることになるのでした。
『なに、繊細ぶってるの』
『てか、カッコつけてる』
あー、そうか。
これは邪魔なモノなのか。
そこから、今まで『弱さ』も『涙』も『鋭さ』も『感性』も、全てしまって見せないように生きてきた。
だから、いつかの私はJ-popの甘ったるい歌詞が大嫌いだった。
嘘ばかりだ。
弱さを受けとめてくれる人なんかいやしない。
支えてあげたい。そのままの君でいい。守ってあげたい。
嘘ばかり、聴きたくないよ。
その頃の私が代わりに愛したのは重低音のきいたEDMや洋楽のハードロック。
会話の代わりにショットのテキーラ。
荒れた生活を終わりにしたのは『愛の力』ではありません。
王子様は現れない、永遠に。
全て自分で決めて、自分で終わりにした。
🎃🎃🎃
そこで今に至るわけなのですが。
そこから奇妙な巡り合わせがあり、もらった奇妙なエネルギー(失礼)といつかの『弱さ』や『涙』を研磨して、そこから何かを伝えたくて、今は前向きに生きてる……
……生きてると、そう思っていたの。
気が付かなかった。
自分がずっと『私』という着ぐるみを着て生きてたことに。
心のなかで、何かを錬成する。研磨する。
でも、その工程は誰にも、欠片も見せない。
誰にも見えない、着ぐるみのなかで。
何も知らなかったような顔をして。
果たしてそれって人間らしいのか?
そう思ったら、ばらばらと涙が溢れてきた。
子供の運動会のあと、お皿を洗いながら。
『弱さ』も『涙』も『傷』も『鋭さ』も。
全て私のものであるはずなのに、それをひたすら隠して、見せないように気をつけていたことすら忘れて生きてる。
🎃🎃🎃
今日はハロウィンだ。
仮装は今日だけ、今日まで。
着ぐるみの頭だけ取って、ようやく着ぐるみに気づいて呆然としてる。
そういう私はこれを脱ぎ捨てて、生きていけるんだろうか。
頭のなかでぐるぐると言葉が回る。
『何一つ臆することなどはないと』
これが答えなのかどうかは分からない。
でも、着ぐるみは脱ごうと思う。
臆せずに、生きてみようと思う。
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