お腹の底から笑いたい。
今、だいぶ落ち着いてきたが、松本人志さんの性加害問題に端を発して過去のバラエティ番組まで批判の対象になった。今のご時世であれば完全にアウトだが、過去のバラエティ番組まで引き合いに出されるのは後出しジャンケンじゃないだろうか?
性加害問題が発生する前から問題になっていればまだ納得できるが大勢の人が見ているバラエティ番組であって今まで知らなかったことは罪にならないのかと思う。
女性タレントにひどいセクハラをしていたが私も放送当時見ていたが不快になってそのバラエティ番組はだんだん見なくなった記憶がある。
松本人志さんの著書「遺書」も買って読んだが内容が過激過ぎてすぐに古本屋に売ってしまった。その当時もなんかおかしいなとか、不快だなとは思っていた。
90年代のバラエティ番組って電波少年とか過激なバラエティが流行っていて、テレビとは非日常を見せてくれるものだと思っていた。芸能界なんて自分には関係ない世界でどこか他人事だと思っていた。
しかし現在では、ジャニーズの性加害問題や宝塚のいじめ・パワハラ問題など無視できない問題が起きていて芸能人も雲の上の存在から生身の人間であることが当たり前だとわかってきた。
私が子どもの頃のテレビって笑っていいともで高級メロンが7つも8つももらえる絵に描いたような夢の世界で現実とはかけ離れていた。テレビとは夢の世界の話で私たち庶民とは関係のないものに思えて常識からはずれた世界であってもテレビだからと許容していたと思う。
しかし、それをマネするふとどきなものもいるわけで、テレビの悪影響もあると思う。
昔のテレビ番組で腹を抱えて笑っていたことが残酷な話であると気づいて笑えなくなったりテレビ番組のコンプライアンスはかなり変わってきている。
笑いと嗤いは違うという意見も出てきて私は笑う前にこれは誰か傷ついていないか気になって笑えない自分がいる。
弱者を笑わないお笑いってあるのだろうか。笑いって理屈じゃないところもあるから難しいものでもあると思う。
相手をバカにしたつもりで言ってないことでもえらく傷つけてしまったりするので、その人によって傷つくポイントも違うように感じる。
「いじる」という行為も強者が弱者にやるといじめだし、弱者が強者にする「いじり」ってあるのだろうか?関係性が対等じゃないと笑いは生まれないだろう。
最近、体調が悪くお腹をかかえて笑うってことしていないように思う。
私も人を笑わせたいと思っているひとりだが、このnoteにも日常で起こったクスッと笑える出来事を書きたいと思うのに、自分の病状など人の死について書いていて暗いったりゃありゃしない。
明るい話が書きたい。人を傷つけずに笑わせたい。どんはれは明るい人気者になりたい。子どもの頃容易にできたことが今はできない。無邪気には笑えない。
笑いってものがそもそもどんな行為なのかわからなくなってきた。
リアクション芸ってあるけど、出川哲朗さんが足つぼをされている番組があった。痛がっている出川さんをかわいそうだと思うよりも、足つぼする先生と出川さんの勝負のようになり、なにをそんなに闘っているのか意味がわからないなと思ったら笑えてきた。
そのころの私は体調が悪く、笑うなんてことはしばらくできていなかったが、無意味といえる争いごとに思わず笑っていた。そして、気分がスッキリした。
痛がっている人を笑ってしまうのは、いじめじゃないのかと言われるといじめな気がするが、足ツボは健康になるためにするもので危険なものではないし、痛さで気を失うものでもない。痛さの度合いによるものだろうか。マッサージをされて恍惚の表情を浮かべている人を見ても笑いはおきないのはなぜだろう。
痛さというネガティブな感情が人々の共感を呼び、笑いへと転換するのではないか。
お笑いを真面目に語るほど、カッコ悪いことはないように思える。笑いはその場のノリと瞬発力がいるときがある。弱者を笑わないお笑いネタをここnoteで書いてみたが、どうだっただろう。
私は私の恥をかいただけだった。恥ずかしいことは笑いになる。負の出来事を笑い飛ばすことで救われることもある。もちろん、洒落にならないこともあるだろうが、見方を変えれば笑いになることもたくさんある。
お腹の底から笑いたい。そのためには何が必要なのか、誰か教えてほしいものである。
↓こちらでも記事を書いています。興味のある方は読んでみてください。
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