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萩尾望都の「半神」を読んで

大人になってひざが震えるほどの感動を覚えた作品に出会った。それは萩尾望都の「半神」という作品だ。

身体が繋がったまま生まれてきた双子の姉妹のお話だ。妹は知的に障害があって天真爛漫で愛くるしい容姿であり、人々に愛されていた。
一方、姉は妹に栄養分を奪われ、髪もまばらでみすぼらしく性格も妹と違って知能が高いのでいろいろなことがわかってしまい、暗かった。

姉は妹が歩くこともできず、知的な遅れもあっていたずらばかりし、世話を見るのに大変だ。妹がいるだけで不幸だと感じている。

ある日、姉と妹の体を引き離さないと両方とも死んでしまうと言われ、成功するのが難しい手術を受けることになる。
手術は成功し、姉は妹と離れることができた。しかし、妹は自分で栄養をとることができず、どんどんとやせ衰え、かつての姉のような風貌になり、死んでしまう。

姉は自分だけで栄養がとれるようになり、その見た目は愛くるしい妹とうり二つに成長していく。
姉はすっかり元気になり、ボーイフレンドもできてかつては手にすることも難しかった普通で穏やかな生活を手に入れた。

鏡を見ながら、姉はかつての妹にうり二つの自分を見て涙を流す。死んでしまった妹は自分自身で今生きている私はいったいなんなのだろう?と。
こんなときは涙が止まらない。妹を愛していたし、憎んでもいたと。

ナルキッソスが水にうつった自分に恋してしまうように、自分を愛してしまった物語の延長線上に自分を憎んでしまうこともあるのではないかとこの「半神」という漫画は教えてくれる。
健康的なナルシズムをこえ、神の領域まで自分を愛してしまうと自分を憎んだりと感情が揺れ動くものなのかもしれない。

姉は、不幸の源であった妹がいなくなり、幸せをつかんだように見えた。しかし、その不幸は抱えていた重い岩石で取り除かれるとバランスを崩してうまく歩けないようにその不幸そのものが大きな存在感を持っていた。

姉は、その後うまく歩けるようになってその不幸を忘れることができるのだろうか?
いや、決して忘れることはできないのではないだろうか?かつて愛した私だったものをなかったことにはできないと思う。

それだけ、愛していたし、憎んでいた。生き残ってしまったものはそれを抱えながら生きていかなくてはならない。それは業というものだろうか?
神様は生者に試練を与え続ける。生きていくことはかつて愛したものの記憶を抱えながら生きていくことだ。

生者として再生しながらも失った片割れの自分に涙が止まらないのもわかる気がする。
悲しみは癒えることはないかもしれないが、私たちは生きるのをやめることはできない。

生きることはそれだけ大変なことであり、その生には犠牲がつきものなのかもしれない。その罪を抱えながら本当の幸せを探す旅が生きることなのかもしれないと思った。

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