見出し画像

〔73〕稽古35 表現修正版・乞再読

〔73〕稽古35 (5月22日表現修正)再読を乞う
 プラザ合意に応じた日本は、大蔵大臣竹下登の指導の下に金融当局が円高を放置したため製造業の空洞化を招きましたが、日銀の佐々木総裁が銀行貸付けの担保として土地を重視する「実質的土地本位制」を採用したことで発生した余剰信用が土地バブルになり、さらに証券バブルに転じたことで、未曽有の好景気が発生いたしました。
 竹下登の中華人民共和国(中共)における相似象が、明の太祖朱元璋の十九代孫で、平成三(1991)年に国務院副総理、翌年に三階級特進で中央政治局常務委員に就いた朱鎔基です。
 昭和六十二(1987)年に上海市党委員会副書記に就いて書記兼上海市長の江沢民を補佐した朱鎔基は、翌年に江沢民の後任の上海市長に就き、江沢民の後継者としての地位を固めます。
 平成五(1993)年に経済担当第一副首相となり改革開放の推進による経済の高度成長の持続を図った朱鎔基は、この頃から顕著になった「経済過熱」すなわちバブル現象に直面します。
 加熱経済に対処しながら高度成長を維持するための外資導入を図り、銀行改革を断行するため自ら中国人民銀行の行長を兼ね、地方政府や国営企業の不良債権を整理してインフレ抑制に成功した朱鎔基は、平成十(1998)年に国務院総理に就きます。

 朱鎔基の顧問になったのが経済企画庁事務次官から大和証券経済研究所理事長に転じていた宮崎勇さんですが、この人事れは極秘であったらしく、狸が経済企画庁で知り合って友人となった某氏は、「なぜか朱鎔基が、事あるほとに宮崎崎先生、宮崎先生としきりに持ち上げていた」と不思議がっていましたが、平成七(1995)年から翌年一月まで村山富市内閣の経済企画庁長官を勤めた宮崎勇さんは平成二十八(2016)年に逝去されました。
 ここまで見てくると、田中角栄=江沢民、且つ竹下登=朱鎔基と対を成すように見えませんか? 各々がその後たどった運命は正反対ですが、、、
 田中角栄(1918~1993)の晩年は御高承の通りで、脳梗塞のあとの八年間を病床で過し享年七十六歳で逝去しました。竹下登(1924~1999?)は昭和六十(1985)年に田中角栄に反旗を翻して創世会を建て、二年後に経世会を結成して総理大臣に就いたものの、平成元(1989)年にリクルート事件で辞職を余儀なくされます。
 竹下以後、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一と続いた自民党内閣は、平成五(1993年)の衆院選で自民党が過半数を割ったことで55年体制が崩壊し、日本新党の細川護熙を首班とする野党連立内閣が成立します。
 細川内閣も社会党が離反したため内閣の維持ができず、平成六(1994)年四月に新生党の羽田孜が細川の跡を受けて非自民党連合による羽田内閣が成立します。その後を継いだのが、自・社・さきがけ連合による村山富市内閣で、誤った敗戦史観による村山談話を発表して禍根を今に残します。
 自民党政権が復活したのは三年後の平成八(1996)年で、橋本龍太郎が内閣を組織したあと平成十(1998)年に小渕恵三に譲ります。
 この間、一介の衆院議員ながら自民党を通じて政界を操縦していた竹下登が平成十(1998)年の暮に埼玉医大病院に秘かに入院していたことを透破抜いたのが藤井玄喜のKFGR(ケンブリッジ・フォアキャスト・レポート)で、併せてCIAによる陰謀説を報じています。
 ここで白頭狸が強調するのは、竹下登が同病院で平成十一年四月五日に薨去したとの根拠ある伝聞です。この事を、水谷民彦さんから詳細に伝えらえた狸は、その骨子を稽古32稽古33の有料領域で述べましたから、再度ご確認いただきたいと思いますが、果たしてこの通りなら、竹下登の享年は奇しくも田中角栄と同じ七十六歳です。
 他方、江沢民(1926~2022)は享年九十七歳まで長寿を保ち、昨年逝去しましたが、朱鎔基(1928~)は数え九十六歳でなお存命です。
 ここまでは稽古34の加筆部分の背景です。
 この後は当分の間、命理学から逸れて日本の命運を論じますので、四柱推命だけに拘る方々は、以下をスルーして白頭狸が再び命理学を論ずるとき迄、少しの間お待ちください。

ここから先は

3,609字 / 1画像

¥ 500

いただいたサポートはクリエイター活動の励みになります。