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『秀でた能力』 はなかなか厄介なもの

 若い人たちは、あまり知らないと思う。約半世紀前、1964年の東京オリンピック、マラソンで銅メダルを獲った円谷幸吉選手のことを。彼はその約4年後、27歳という若さで自らの人生を終えた。その死と共に、彼の遺書は多くの人に衝撃を与えた。

 中学生の私は「オリンピックでメダルを獲るようなスゴイ人がどうしてこういう遺書を残して死んじゃったんだろうか」と驚いた。とても切なくなる悲しい遺書(探すとネットのどこかで見ることができる)だった。

 秀でた能力を持つ人は、その能力への周囲の期待があまりに大きいと、自分と周りの人々との関係がよくわからなくなるらしい。

 「その秀でた能力」は、称賛され、利用され、消費される。それが行き過ぎると、重要視するのはその人の発揮する秀でた能力であり「その人」の人となりのありようは、不祥事を起こさない限り、周囲の人たちは気にしなくなってしまう。

 そういう状態が続くと、本人もまた、自分の価値を「秀でた能力があること」と強く感じるようになるのだろう。この錯覚は・・とても怖い。

 能力には確かに価値があり、それを称賛するのはいいが、能力はあくまでも「その人の人となり」の一部分だ。それを失ったからと言って、自分を人生を全部失うわけではない。いや、失ってはいけないだろう。

 能力への偏愛は能力怪物を作り出す。やがて怪物は周囲を傷つけ、自身を破滅させてしまう。少し目を凝らして世の中を見れば、そんな例がいくつもあることに気づく。

 秀でた能力に、あまりに意味を持たせ過ぎるのはまちがいだ。円谷選手の悲劇は、それを考える機会を与えてくれたが、つくづく残念に思われてならない。
                       

 

 

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