祈りの地 1 遅い始まり
半世紀ほど昔、母はハンセン病にかかった知人に頼まれ、他県で密かに治療を手配したことがあった。まだらい予防法があった時代だ。当時、母はもう看護婦(看護師)として働いていなかったが、養成学校時代の同期があちこちにいたので、手助けできたようだ。そんなこともあり、いつかハンセン病とその歴史について学び、考えたいと思っていた。
*ハンセン病は感染力がとても弱く、薬によって完治する病気です。
今年6月、ようやく東村山市にある『国立ハンセン病資料館』を訪れることができた。学びたい、考えたいと思いながらも重いテーマに腰が引けてしまっていた。ずいぶん長い時間が経ってしまった。
ハンセン病についての説明は国立療養所多摩全生園のHPの園長の「ごあいさつ」に簡潔にわかりやすく記されている。
所沢駅からバスに乗り、「ハンセン病資料館」前で降りた。国立の資料館の玄関口なのに、道がずいぶん狭い、と驚く。しかもバス停がかなりボロい。
後で全生園の正門は反対側だと知った。全生園は東京ドーム8個分の広さでピーク時には1,500人もの人が暮らすハンセン病患者の隔離施設(1909年〜1996年)だった。
ハンセン病は、時間も空間もとても大きなテーマだと改めて気づく。
去年から足の感覚障害がひどく長時間歩くのが辛い。今回私が歩いた園内は資料館を中心にわずかな距離だ。
資料館内の様子とハンセン病問題についてはNOOK(のおく)さんのレポートがとても参考になる。
一通り資料館を見て歩き、外へ出た。
全生園内は道が広い。・・広い園内に人影はなく車も走っていない。「2024年4月現在、在園している方は高齢で95名、平均年齢88.5歳」と園長の挨拶の中に。歩いている人がいないのもうなずける。ひとりとぼとぼと歩いていると、この広さに・・悲しくなった。
誰が名づけたのかわからないが、施設の名前、最初は「全生(ぜんせい)病院」だった。
後日見つけた新聞史料、全生病院開設の記事、最後の三行には「癩療養所と云へば、其名忌まはしきより、之を全生病院と命名したるは宜し。」とある。
癩病の療養所と名付けてしまうと、忌み嫌われるので、全生病院という名前にしてよかった、ということだろう。
隔離され、その場所だけで一生を過ごすことになるために名付けたと思われる「全生(ぜんせい)病院」「全生(ぜんしょう)園」、名前そのものがもの悲しい。
なお、らい予防法の改廃が遅れ、隔離政策が明らかに間違いとわかってからも約50年続いてしまった理由については、厚生労働省の以下のページの「第五 らい予防法の改廃が遅れた理由(PDF)」に詳しい。これを読むと『ねじれた愚かさ』を思い知らされ、言葉を失う。
園内を散策していくと、道路脇の木々に小さな木札がかかっているのに気がついた。公園のように木の名前が付けられているのかと見たら、亡くなった方々の名前が記されていた。樹木葬の場所なのだろうか。それともご遺族が生涯をこの地で過ごさなくてはならなかった家族のために名前を記し植樹したのだろうか。
資料館の横からの細い道は4,000余名が眠る納骨堂へと続いている。納骨堂では萎れた献花がそのままだった。
次にはお花を持って来ようと思いながらしばらく手を合わせ、ご冥福をお祈りした。
ハンセン病というテーマは入り口は狭いが一旦中へ入るととてつもなく広い。重い事実に触れるたび、私の言葉や考えなど、瞬間で、ファーッ・・と消えてしまう。なかなか近づけなかったのもムベなるかな。(ちなみにムベは果物だ。)
少しずつでいいじゃないか、と自分に言い聞かせる。残り時間もエネルギーもそう多くはないが、行けるところまで行ってみようか。