能力差別とフェミニズム
私はリアルタイムで「女性解放運動」「ウーマンリブ」という社会運動らしきものが出てきた時代をわずかだが知っている。当時は高校生だった。
若くて行動力と好奇心があり、そのアジトのようなところへも行ってみた。そして部屋の台所に山積みされた汚れた食器を見てなぜか「これは違うな」と感じた。
女性解放について話をしている大人の女性たちの日頃の言動を見ても「これは違うな」と思った。
当時もそれ以降も、そうした問題をテーマにしている本を読んでみたが、データー分析をしているわけでもなく、ほとんどが著者の個人的な見解の披露に終わっていた。やはり「これは違うな」だった。
「同じ能力の男女で差別するな」というは考え方の元にあるのは能力主義的な考え方だろう。
これだけでは「能力は90%の生まれつきと残りは運といくばくかの努力の結果」と思っている私には、受け入れがたかった。フェミニズムは能力差別を助長するものに感じられた。
ならば、能力差別を否定する共産主義的な考えが加わればいいのかというと、それもまた「それも違う」だった。命の本質は生存へのベクトルだ。共産主義的な社会構造はそのベクトルを混乱させ、長期的には破綻する。
どんな社会構造になったところで、能力の個人差は避けられない。ならば、問題は性差別ではなく、生き物としての人間に許容できる範囲の能力差別を最小限にすることではないのか。
男性の筋力の価値が大暴落している現在でも、受け入れた方がいい性差はある。男女ともに稀な能力者を基準にあれこれと社会全体のあり方を考えても解決には至らないだろう。
老若男女を問わず「人権」を守る社会構造の構築の中に男女差別問題も収斂していく方向を模索していきたいものだ。
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