小説家になるための要件:芥川龍之介と菊池寛の見解

私は若いころ、ライトノベルの剣と魔法の物語に没頭した時期がありました。そして、いつか自分もこんな小説を書いてみたいと思っていました。その頃から20年以上経って、小説を書きたいとは思わなくなりました。その理由のひとつは、哲学や評論のほうが面白く感じるようになったからです。けれど、世の中には、小説家になりたいと思っている少年少女が多くいると考えています。そんな青少年に、「小説家になるための要件」を私なりに教示したいと思います。
文学と言えば、私にとっては夏目漱石の小説ですが、純文学の登竜門は芥川賞なので、芥川龍之介の小説に対する見解を一部紹介します。

芥川龍之介は『文芸家たらんとする諸君に与ふ』のなかで、次のような文章を書いています。

「文芸家たらんとする中学生は、須らく数学を学ぶ事勤勉なるべし。然らずんばその頭脳常に理路を辿る事迂にして、到底一人前の文芸家にならざるものと覚悟せよ。
 文芸家たらんとする中学生は、須らく体操を学ぶこと勤勉なるべし。然らずんばその体格常に薄弱にして、到底生涯の大業を成就せざるものと覚悟せよ。
 文芸家たらんとする中学生は、須らく国語作文等を学ぶに冷淡なるべし。これらの課目に冷淡にして、しかもこれらの課目に通暁し得る人物にあらずんば、到底半人前の文芸家にさへならざるものと覚悟せよ。
 数学の出来ず、体操の嫌ひなるを以て、反って己の文芸的天分豊かなるかの如く自惚るるものは元より、国語の点数多く作文の甲ばかりなるを以て、ひとかどの天才の如く考ふるものは、自家の愚を天下に広告すると共に、併せて文芸の大道を冒涜するものと言わざる可からず。」

芥川は、文芸家になるためには、一見無関係な数学と体育をしっかりと学ぶようにと訓戒しています。そうでなければ、論理的な文章構成はできないし、また小説を書くということは体力勝負でもあるから、体力が無ければ、小説家として大成できないと述べるのです。
そして面白いことに、国語や作文の成績に対して冷淡であるべきだ、と。私たちはややともすると、数学や体育はできないが、作文の才のある少年少女に文才を認めますが、芥川はそれを「文芸の大道を冒涜するもの」と断ずるのです。

同じような表題で、菊池寛も小説家になるための要件を論じています。『小説家たらんとする青年に与う』というエッセイです。こちらは、かなりの長文ですが、とても良い文章なので、全文引用したいと思います。

僕は先ず、「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」という規則を拵えたい。全く、十七、十八乃至二十歳で、小説を書いたって、しようがないと思う。
 とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るということと、ある程度に、人生に対する考え、いわゆる人生観というべきものを、きちんと持つということが必要である。
 とにかく、どんなものでも、自分自身、独特の哲学といったものを持つことが必要だと思う。それが出来るまでは、小説を書いたって、ただの遊戯に過ぎないと思う。だから、二十歳前後の青年が、小説を持って来て、「見てくれ」というものがあっても、実際、挨拶のしようがないのだ。で、とにかく、人生というものに対しての自分自身の考えを持つようになれば、それが小説を書く準備としては第一であって、それより以上、注意することはない。小説を実際に書くなどということは、ずっと末の末だと思う。
 実際、小説を書く練習ということには、人生というものに対して、これをどんな風に見るかということ、――つまり、人生を見る眼を、段々はっきりさせてゆく、それが一番大切なのである。
 吾々が小説を書くにしても、頭の中で、材料を考えているのに三四ヵ月もかかり、いざ書くとなると二日三日で出来上ってしまうが、それと同じく、小説を書く修業も、色々なことを考えたり、或は世の中を見たりすることに七八年もかかって、いざ紙に向って書くのは、一番最後の半年か一年でいいと思う。
 小説を書くということは、決して紙に向って筆を動かすことではない。吾々の平生の生活が、それぞれ小説を書いているということになり、また、その中で、小説を作っているべき筈だ。どうもこの本末を顛倒している人が多くて困る。ちょっと一二年も、文学に親しむと、すぐもう、小説を書きたがる。しかし、それでは駄目だ。だから、小説を書くということは、紙に向って、筆を動かすことではなく、日常生活の中に、自分を見ることだ。すなわち、日常生活が小説を書くための修業なのだ。学生なら学校生活、職工ならその労働、会社員は会社の仕事、各々の生活をすればいい。而して、小説を書く修業をするのが本当だと思う。
 では、ただ生活してさえ行ったら、それでいいかというに、決してそうではない。生活しながら、色々な作家が、どういう風に、人生を見たかを知ることが大切だ。それには、矢張り、多く読むことが必要だ。
 そして、それら多くの作家が、如何なる風に人生を見ているかということを、参考として、そして自分が新しく、自分の考えで人生を見るのだ。言い換えれば、どんなに小さくとも、どんなに曲っていても、自分一個の人生観というものを、築きあげて行くことだ。
 こういう風に、自分自身の人生観――そういうものが出来れば、小説というものも、自然に作られる。もうその表現の形式は、自然と浮んで来るのだ。自分の考えでは、――その作者の人生観が、世の中の事に触れ、折に触れて、表われ出たものが小説なのである。
 すなわち、小説というものは、或る人生観を持った作家が、世の中の事象に事よせて、自分の人生観を発表したものなのである。
 だから、そういう意味で、小説を書く前に、先ず、自分の人生観をつくり上げることが大切だと思う。
 そこで、まだ世の中を見る眼、それから人生に対する考え、そんなものが、ハッキリと定まっていない、独特のものを持っていない、二十五歳未満の青少年が、小説を書いても、それは無意味だし、また、しようがないのである。
 そういう青年時代は、ただ、色々な作品を読んで、また実際に、生活をして、自分自身の人生に対する考えを、的確に、築き上げて行くべき時代だと思う。尤も、遊戯として、文芸に親しむ人や、或は又、趣味として、これを愛する人達は、よし十七八で小説を書こうが、二十歳で創作をしようが、それはその人の勝手である。苟も、本当に小説家になろうとする者は、須く隠忍自重して、よく頭を養い、よく眼をこやし、満を持して放たないという覚悟がなければならない。
 僕なんかも、始めて小説というものを書いたのは、二十八の年だ。それまでは、小説といったものは全く一つも書いたことはない。紙に向って小説を書く練習なんか、少しも要らないのだ。
 とにかく、自分が、書きたいこと、発表したいもの、また発表して価値のあるもの、そういうものが、頭に出来た時には、表現の形は、恰も、影の形に従うが如く、自然と出て来るものだ。
 そこで、いわゆる小説を書くには、小手先の技巧なんかは、何んにも要らないのだ。短篇なんかをちょっとうまく纏める技巧、そんなものは、これからは何の役にも立たない。
 これほど、文芸が発達して来て、小説が盛んに読まれている以上、相当に文学の才のある人は、誰でもうまく書くと思う。
 そんなら、何処で勝つかと言えば、技巧の中に匿された人生観、哲学で、自分を見せて行くより、しようがないと思う。
 だから、本当の小説家になるのに、一番困る人は、二十二三歳で、相当にうまい短篇が書ける人だ。だから、小説家たらんとする者は、そういうようなちょっとした文芸上の遊戯に耽ることをよして、専心に、人生に対する修業を励むべきではないか。
 それから、小説を書くのに、一番大切なのは、生活をしたということである。実際、古語にも「可愛い子には旅をさせろ」というが、それと同じく、小説を書くには、若い時代の苦労が第一なのだ。金のある人などは、真に生活の苦労を知ることは出来ないかも知れないが、とにかく、若い人は、つぶさに人生の辛酸を嘗めることが大切である。
 作品の背後に、生活というものの苦労があるとないとでは、人生味といったものが、何といっても稀薄だ。だから、その人が、過去において、生活したということは、その作家として立つ第一の要素であると思う。そういう意味からも、本当に作家となる人は、くだらない短篇なんか書かずに、専ら生活に没頭して、将来、作家として立つための材料を、蒐集すべきである。
 かくの如く、生活して行き、而して、人間として、生きて行くということ、それが、すなわち、小説を書くための修業として第一だと思う。
 
 
最近の芥川賞を見ていると、第一に挙げられるのが、菊池寛が眉をひそめるであろう受賞者の低年齢化であり、第二に挙げられるのが、「二十二三歳で、相当にうまい短篇が書ける人」が受賞者になっていることでしょう。第二の点については、芥川も菊池も共通した考えを持っていたと思われます。菊池はさらに進んで、「小説家たらんとする者は、そういうようなちょっとした文芸上の遊戯に耽ることをよして、専心に、人生に対する修業を励むべきではないか」と述べています。さらに、「作品の背後に、生活というものの苦労があるとないとでは、人生味といったものが、何といっても希薄だ」と述べています。
 
果たして、昨今の芥川賞作品に、そういった生活の辛酸に裏付けられた「人生味」があるのかどうか。これは私のNOTEブログ『思想家と大学教授』にも通底するものであり、哲学の世界においても、芥川、菊池の指摘は当てはまるのではないでしょうか。

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