砂丘の子供たち 覚書 下
下巻にも気になる箇所がいくつも出てきた。まるで心理学と史学と文明論を読んでるような所もあった。
下166
ここでレトは先人たちに(自分の中の)
語りかけた。
我は諸君らの聖霊なり。諸君に理解できる唯一の生なり。どこにも存在せぬ地、諸君に残された最後の居所、そこにひしめく諸君の魂を宿す家。
それこそが我と考えられよ。われなくして理知的な宇宙は混沌へ逆行する。創造性と底知れぬ淵は、われの中において一体不可分に統合され、両者に割ってはいるのはわれにおいてなく、われなくして人類は知識の泥沼と虚栄に沈む。われ通じてのみ、諸君と他者は混沌を脱する唯一の道を見出しうる。その道とは、<生きることで理解すること>にほかならぬ。
この言葉とともに、レトは自分の手綱を放し、自分自身に-過去の万事を理解してとりこんだ自分自身の人格に-帰還した。これは勝利ではない。敗北でもない。自分が選ぶどの内なる先人とも自在に協調しあえる新たな境地だ。
レトはこの新境地に自己の全細胞、全神経を所有させ、それまでの洞察が自分に提示していたものを捨て去り、捨て去ったその瞬間において全体性を取り戻した。
まるで集団的無意識との向き合い方と自己統合の方法をはなしているかの。フランクハーバートは心理学にも詳しいのか
下p222
レディジェシカがファラディーンに言う。
私たちが行ってきたらあらゆる観察のうちこれは特に重要なものなの、以前にジェシカはそういったことがある,
生命とは、それを通じて宇宙が自己表現をするための仮面。私たちは人類とその支えとなる全生命が自然の共同体を形成する、
そしてそこに属する生命全体の運命は、個々の運命に左右されると想定しているの。したがって究極の自省ともいうべき運命への愛に相対する段階では、私たちは神を演じることをやめて教育へと立ち返る。終局において、わたしたは個を選びその個が可能なかぎり自由であるように努めさせるのよ
下p226
人間たるもの自身の内なる衝動の赴くままにおのれの為したいことを為すべきではないか。
人は交易機構でもなければ命令系統でもない。偉大なる文明を機能させる存在にほかならぬ。あらゆる文明はその文明を構成する個人個人の資質に負うところが大きい。人類を過度に組織化し、規則で過度に縛ろうとするならばら偉大なる文明へ向かう意欲を抑圧する事になる。結果として人間はもう働かなくなり、文明は崩壊する。
下p349
ガーニーハレック
地方はもはや都市部の植民地だ。地方民の心の持ちようは軟弱になった。だからこそ住民は被支配者特有のいじましい暮らしを送っている。自由の民の堂々たるそれではなく、ここの者たちは猜疑心が強く、秘密主義的で、すぐに逃げを打つ。そしていかなる権威の介入にも反抗的態度をとる。それがどんな権威であろうとも。摂政でえれ、スティルガーであれ、密輸業者の評議会であれ。
まるで今の日本のようである。戦前は嫌いだけど今の腑抜けのような日本もひどいよなあ。
しかしガーニーハレックは今回も何の活躍もせんかったな。もうちょっと双子を助けんかいポールに会いに行くとかよ。
下巻p461
レトの言葉
いかなる文明もかならず普遍的な
神秘主義を持つ。それは変化に対する障壁となって行く手に立ちはだかり、常に未来の世代を宇宙の変節に対処せる準備が出来ない状態に陥らせてしまう。
すべての神秘主義はその手の障壁を醸成する。
宗教的な神秘主義、英雄的な指導者を盲信する神秘主義、救世主を仰ぐ神秘主義、科学技術に関する神秘主義、自然そのものに対する神秘主義、そういったものがだよ。われわれが生きるこのていこにもひとつの神秘主義が形作られできた。それゆえに、帝国は崩壊しつつある。なぜならほとんどの民衆には、神秘主義と自分達の住んでいる宇宙との区別がつかないからだ。例えるなら神秘主義とは、人が悪霊に取り憑かれた状態のようなもの。悪霊に無意識を乗っ取られても、はたから見るかぎり、
悪霊と本人の区別はつかない
などとフランクハーバートの小説には哲学や心理学、未来予測。文明論、運命論。などさまざまな要素が絡み考えさせられる。何より小説として中身が濃い!
久しぶりに小説らしい物語を読んだ気がした。
まだこの先物語は続き、砂漠の神皇帝、砂漠の異端者、砂漠の大聖堂とつづく。そして息子と作家が更に続編と完結編、外伝を書いているとか。
続編の新訳を早川書房が出してくれるかどうか?作品は確かに面白い。フランクハーバートの見えていた世界とは何だったんだろう。
そして死んだ登場人物が、反則技で蘇るのか。その外伝で、デューンの前日譚、人工知能機械と人類との戦いが描かれるらしいがそれは今の世の中の未来を暗示しているかのような。
フランクハーバートとてつもない目と頭を持った作家。
ヴィルヌーブは砂漠の救世主までしか映像化しないらしいけど。しかし物語の枠組みとして子供たちまでやらないと、終わらないじゃない。あと砂鱒はどんなふうに映像化するんだろ読んでても魚のようなワームのような ウナギみたいな感じなんかな。繊毛があるっていってたしわからんなあ気持ち悪いやろなあ^_^
でもレトがアレになるところが砂丘の子供たちの最大の見せ場なんだから。ポールはそれを拒否して砂漠に逃げたとあるが、アリアは母や兄がいなくなった重圧で闇落ちするし。2人を何とか助けれなかったものか、子供達は無情であった。
結局ダンカンやスティルガー、ガーニーがいても最後は個人が決断して責任を負うという自由の原則はこの小説のメインテーマなんだろうな
DUNE2まではリンチ版の映像化が参考になってたけど、砂漠の救世主からはテレビ版はあるけど映画化は初めてなので、ヴィルヌーブがどんな映像を出せるのか興味はある。
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