自信を持つって何?
自信とか、自分を信じるとかその類の言葉が最近意識高い系の人種に流行っていますが、僕は、よくわかりません。皆勘違いをして使っていると思うのです。だって、自信とか自分を信じるとか、僕は魔法の言葉だと思っていて、それを唱えれば、勇気のある一歩を踏み出せるとか、今まで自分が工夫してやってきた練習は周りの奴と比べても劣らないぞ、とか、正念場の時に使えるチート技、はったり技、猫だましだと思うのです。それを履き違えて勘違いして使っている奴は、痛い目を見ると思うのです。その誤った使い方として、常時、人と比べられるような能力に自信を持つことです。この「常に」と、「人と比べられる」がミソです。まず自信は正念場のときだけで十分です。ずっと持っていると、とにかく疲れると思うのです。人は、自分のことに嘘をついて大きく見せようとする生き物だと、三島由紀夫の不道徳教育講座にもありましたが、常に虚栄心を張っていると疲れ、自分が阿保らしく思えます。また、運動能力、暗記力、外見など相対的評価ができるものに自信を持っていると、隣の芝が青く見えるというように、絶望を味わうことになります。だからといって自信を持たざるべし、ということを薦めるつもりはないです。自信を持たない方が良いとは言いません。なぜなら僕は、本当に大学当初の頃、自信が無さ過ぎて、いわゆる自己肯定感が低く、大変に困りました。自信が無くなるとほとんどのことに消極的になり、最終的に植物のような人間になっていくのです。だから、そうならないためにも自信は必要です。もしかしたら、今の自分を支えているものは自信かもしれない。自分のことはさておき、さてどのような自信を持っておくが良いのかというと、人と比べられないもの、つまり絶対的なものです。人から一切干渉されないものです。三島由紀夫の金閣寺の、誰にも理解されない自分の考えが唯一の誇りであったと同じものだと思っています。それは僕にとって自分の哲学、理屈だと思うのです。それが自信になり、生きがいになると思うのです。だから、僕は、自分の哲学、理屈が大好きだし、人の哲学、理屈に触れるのも大好きなのです。
2024年 10月2日
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