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7歳__心因性頻尿/小説【その患者は、「幸せ」を知らないようだった。】

「何度言ったらわかるの!!」
母親の希代は、台所のステンレス台を叩いて怒鳴った。

「ごめん…」咲希はピアノの前で涙を堪えていた。
次のコンクールの課題曲を練習しているのだが、テンポが速くてつい指が走ってしまう。
左手の甲を血が出るまでつねると、涙が堪えられることを咲希は7歳にして知っていた。

「そこは三連符でしょうが!わかってるの!?」
希代は半ヒステリック状態だった。
咲希がピアノの練習を始めてから、とうに3時間が経過していた。

「うん…ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」
咲希は椅子から立ち上がった。

「すぐ帰ってきてよ」
希代は吐き捨てるように言った。

トイレの扉を閉めると、咲希は少しだけ安心感を覚えた。
トイレの中は自分一人だ。誰も干渉してこない。

ほっとしたのも束の間、トイレを終えて、そそくさと咲希はピアノの前に戻った。

課題曲を初めから弾き直す。今回は、少しだけ上手く弾けているような気がした。
しかし、半分も行かないうちに希代がまた台所を叩いた。
ばん、という大きな音に、咲希はびっくりして手が止まる。

「どんどん速くなってる。自分の中でテンポ数えられないのはどうして?それに、感情がこもってない。手首をもっと柔らかく使いなさいと、何度言ったらわかるの!」

「うん…ごめん、トイレ…」

「は!?まだ5分も経っていないじゃないの!」



そんなやりとりが、5分10分に1度起こって、練習にならなくなった。

咲希にもどうしてこんなにすぐに尿意を催すのか、わからなかった。

挙げ句の果てには希代に、「そんなに練習したくないならもうやらなくていい!」と怒鳴られ、その日のピアノの練習は終わった。


咲希は希代が怖かった。
言い返すことなんて、咲希の幼い頭には、選択肢にも挙がらなかった。

そして不思議なことに、ピアノの練習が終われば気づかぬ間に尿意は消えていった。

※咲希は、あれから10年以上経って、それが心因性頻尿と呼ぶことだと知る。

咲希はやることがなくなって、自分の部屋に戻った。
へなへなと座り込んで、もう虐待している蟻の様子すら確認できなかった。

涙が出てきた。
箍が外れたように、涙は溢れて溢れて止まらなかった。

咲希は、隠れて泣いていた。

夜ご飯に呼ばれるまでには、泣き止まないといけないな、とぼんやり思っていた。

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