Lady Red Riding Hood
とある小さな国のお話です。
あるところに、黒髪の目鼻立ちがキリッとした、やや性格は高圧的な女性がいました。森の外れの小さな家に、お母さんと一緒に住んでいたその人は、いつも赤いずきんの付いた服を着ていたので皆から赤ずきんと呼ばれていました。
ある時、お母さんが赤ずきんを呼んでこう言いました。
「すみません赤ずきん。大変恐縮なのですが、今からおばあさんの家にお使いに行ってくれませんか?」
お母さんは元秘書だったので、とてもテキパキと赤ずきんに指示を出します。
バスケットの中にはおばあさんの好物のサンドイッチとぶどう酒が入っているので、落として割ったり食べたりしないこと。
途中の森には狼がいるので特に気を付けること。
道草をせずに、なるべく早く帰ってくること。
それらを確認した上で、赤ずきんは自分が今から辿るおばあさんの家までの最短ルートを確認し、自分の速度を導き出し、何時までには帰ってきますとお母さんに告げて家を出ました。
「このまま真っ直ぐ歩いて行くよりも、森の中を突っ切って行ったほうがおばあさんの家に5分は早く着くはずね」
計算が得意な赤ずきんはバスケットを持ち直すと、森の中へとどんどん進んで行きました。
森の中を歩いていると、拓けた場所に出ました。
そこは一面の花畑で、色とりどりの様々な花たちがそこかしこにひしめき合っています。
「まあ、なんて綺麗な場所なのかしら」
赤ずきんが思わず歩みを止めて景色に見入っていると、誰かが自分を呼ぶ声がしました。
「あ、赤ずきん、赤ずきん」
「誰?」
見ると、そこには狼が立っていました。
茶色いふわふわした耳と尻尾、色素の薄い瞳をした自分と同じ年頃の優しそうな女性です。その人が嬉しそうに自分を見つめています。
理由もなく胸がときめくのを感じながら、赤ずきんは訊ねました。
「貴女、ここで何をしているの?」
「お花を摘んでいたの」
狼の柔らかな声が、とても心地良く響くのにびっくりしながら赤ずきんはまた訊ねました。
「ここのお花は貴女が管理しているの?」
狼は少し恥ずかしそうに頷きました。
赤ずきんはもう一度びっくりしてしまいました。こんな広い場所に何種類もの花たちを美しく咲かせることが出来るなんて、狼ではなく魔法使いではないのかしらと思います。
また、柔らかな声が響きます。
「赤ずきんは、どこに行くの?」
「病気のおばあさんにお見舞いの品を持って行くところなの」
サンドイッチとぶどう酒が入ったバスケットを持ち上げて見せると、狼は理解したのか優しく微笑みました。
その笑顔に赤ずきんはやっぱりドキドキしてしまいます。
「あの、良かったら」
「え?」
「おばあさんに、お花を摘んでいってあげたら喜ぶんじゃないかしら」
狼がおずおずと口を開いて、辺りの花を指差します。いいの?と訊ねるともちろん、と嬉しそうに狼が答えました。
自分が持っていたとても可愛らしい小さな花束を、そっと赤ずきんに、差し出します。
「わ、私も赤ずきんにお花を摘んだの。受け取ってくれる…?」
「え?私に…?」
狼に似て可愛らしい、小さな白い花の中に、淡い赤色の花が顔を覗かせています。とても素敵な花束をもらって、赤ずきんはいっぺんに嬉しくなってしまいました。
「とても嬉しいわ、ありがとう」
狼にお礼を言うと、その白い頬がほんのり淡く染まりました。
「良かった…受け取ってくれて嬉しい…」
そう言って本当に幸せそうに微笑んでくれます。
赤ずきんの胸が高鳴って、きゅっと苦しくなりました。
思わず自分の胸を押さえます。この高鳴りは何なのか、自分でもよく分からないままに、それでも狼の嬉しそうな笑顔が見たくて赤ずきんも他人にはあまり見せない笑顔を向けました。
※※※※※※※※
「おばあさん、こんにちは」
ベッドの上でうとうとしていたおばあさんは、ドアの外から聞こえてきた小さな声に目を覚ましました。そう言えば、孫である赤ずきんが来ると聞いていたので、いそいそとドアを開けに行きます。
「おや、狼ではないですか」
しかし、そこに居たのは孫ではなく狼でした。
狼は家に上がると礼儀正しくぺこりとお辞儀をします。おばあさんは礼儀正しい人が好きですので、狼のことをいっぺんに気に入りました。
「あの、おばあさん。ベッドを貸して頂けませんか」
「お安い御用ですよ、どうぞどうぞ」
どうして、とか何に使うの、などそんなことは一切気にせずおばあさんは快諾しました。
ちょうど寝ていることにも飽きてきたところです。もうすぐ来る予定の赤ずきんの相手をするのも中々精神的にしんどくなってきているので、ここは狼にお任せしようとおばあさんは笑顔を向けました。
「もうすぐ赤ずきんが来ますからね、良かったらお話でもしてあげてください」
「でも、赤ずきんは私とお話をしてくれるでしょうか…?」
少し心細そうに狼が呟きます。
こんなに礼儀正しく可愛らしい狼と話をしない人間などいるのだろうか、それはいけない。もしそれが孫なら尚更いけない。おばあさんはキッパリと狼に伝えます。
「大丈夫ですよ!赤ずきんは狼さんのことが大好きなんですから」
それを聞いた狼の頬が、パッと紅く染まりました。
恥ずかしそうに、嬉しそうに尻尾が揺れます。
おばあさんは物珍しそうにその様を見つめました。
「わ、私も赤ずきんのことが大好きなんです…」
「なんと…」
もじもじとしながらそう告げる狼の姿を見て、おばあさんはある種の危機感を覚えました。
実は、孫の赤ずきんは肉食だったのです。
文字通り何でも食らう孫が、こんなに可愛い狼を放って置くはずがありません。早晩食べられてしまうことは必至ですが、まさか狼も赤ずきんのことが好きだとは思い至りませんでした。
とは言え、可愛い孫の赤ずきんの幸せがおばあさんには一番ですから、狼の肩を優しく叩いて、そっと家の外に出ていくのでした。
「おばあさん、こんにちは」
「!赤ずきん、よく来たわね、さあ入って入って」
ベッドに潜ってドキドキしながら赤ずきんを待っていた狼ですが、大好きな声が聞こえてきたので起き上がって叫びました。
赤ずきんがこちらに来る足音を聞いて、慌てて布団に隠れます。
「あら、おばあさん?何だか耳が大きくないかしら」
「そ、それは赤ずきんの声をもっと聞いていたいからなの」
ドキドキしながらも、狼はそっと布団から顔を覗かせます。赤ずきんと視線が合って、思わず顔が赤くなってしまいました。
「おばあさんの目は、どうしてそんなに大きいの?」
「だって、赤ずきんのことずっと見ていたいんだもの」
どうしてこんなに綺麗なのかしら。
赤ずきんの顔を見ているだけで、狼はとても幸せな気持ちになります。
うっとりしながら赤ずきんを見つめていると、また訊ねられました。
「おばあさんのお口はどうしてそんなに大きいの?」
「だ、だって…赤ずきんとキスしたいの…」
赤ずきんの唇は、自分と違ってとても綺麗なのです。赤く色付いたその唇を見つめながら、狼は堪らなくなってぎゅっと布団を握りしめました。
その瞬間、赤ずきんから大きな溜息が聞こえて狼はびっくりしてしまいます。
「何なの、もう…」
溜息混じりに呟かれた言葉に、狼は自分は何か気に障ることを言ってしまったかしらと不安になってしまいました。
慌てて布団を剥いで飛び起きます。
「あ、ご、ごめんなさい…」
「信じられないわ。貴女可愛すぎでしょう」
ベッドの上にちょこんと正座している狼を見て、赤ずきんは自分がどうにかなってしまいそうでした。
さっきから胸の動悸がすごいのに、今度は顔が熱くてたまりません。
「え、あの」
「おばあさんじゃないことぐらい、すぐに分かったわよ狼さん」
それはもう、最初から狼であることはバレバレなのでした。赤ずきんが得意気にそう言い放つと、狼は本当に驚いた顔をしています。
柔らかそうな茶色の耳がぺたりと垂れるのを見て、赤ずきんは暴れ出しそうになる自分を何とか抑えることに成功しました。
「あ、あのごめんなさい。私、赤ずきんにどうしても会いたくてそれで」
せっかく抑えたのに軽々と狼がひっくり返してくるものですから、赤ずきんはもう自ら理性を手放すことにしました。
「…ねえ、キスしてもいい?」
赤ずきんの綺麗な唇が近付いてきて、狼はぎゅっと目を瞑りました。
※※※※※※※※
赤ずきんの綺麗な唇が自分の唇と触れ合うと、狼はその柔らかさに夢中になってしまいました。
ドキドキが止まらなくなって、胸がとても苦しいのに自分が止められないのです。
勝手に涙まで出て来てしまって、困ってしまった狼は大好きな赤ずきんの名前を一生懸命呼びました。
「…あ、赤ずきん…、赤ずきん」
「もう、何度も名前を呼ばないで」
唇が離れて、困ったような赤ずきんの声が響きます。思わず目を開けると、涙がぽろりと溢れました。大好きな赤ずきんを困らせてしまったと、狼の耳がへたりと垂れます。
「ご、ごめんなさい…」
赤ずきんの手が狼の頬にそっと触れて、涙を拭ってくれました。
その優しい手つきに、狼はもっと赤ずきんのことが好きになってしまいます。
尻尾が嬉しそうにぱたんぱたんと布団を叩きました。その仕草を見た赤ずきんが、困ったように視線をそらします。
「貴女に名前を呼ばれると、おかしくなっちゃいそうなのよ」
「え?」
そう言って、拗ねたように赤ずきんが少し唇を尖らせます。その可愛らしい様に、狼の胸がまたドキドキしてきます。赤ずきんの頬が赤く染まっているのを見た狼は、思わずうっとりと赤ずきんを見つめてしまいました。
「だって、キスするたびに名前を呼ぶでしょう?」
「あ、う、うん」
キスのたびに大好きな赤ずきんの名前を呼んでしまったのは、あまり良くなかったのでしょうか。
赤ずきんに嫌われたくない狼は、心配になってきてしまいました。
「可愛くてどうしたらいいか分からなくなるのよ…ちゃんと分かってる?」
「何を…?」
キョトンとして首を傾げる狼に、赤ずきんは堪らず空を仰ぎました。
こんなに可愛い生き物がこの地球上にいた事に感謝します。しかも、こんなに近くに。今、自分の目の前にいるのです。
「自分が可愛いってことちゃんと分かってるの?」
思わず大きな声が出そうになって、赤ずきんは慌てて口を閉じました。狼をびっくりさせたくはありません。それに泣かせたくもありません。
この可愛い狼のことを赤ずきんはとても大切に感じていました。守ってあげたいと心から思います。
「私は可愛くないわ、赤ずきんが一番可愛いの」
そう言って、狼がふわふわと柔らかく微笑みました。赤ずきんは冗談抜きに心臓が止まりそうになってしまいます。
だって今まで誰からも可愛いなんて言われたことがありません。どうしてこんなに可愛いのかしら、どうしてこういう事を言うのかしら。赤ずきんは自分の顔がどんどん赤くなってきてしまうのを感じていました。
「もう!そういうところよ」
「ふふ、赤ずきん可愛い…大好き」
ぱたぱたと尻尾を振りながら、狼がそれはそれは幸せそうに自分を見つめています。
狼から向けられる愛情こもった視線を一身に受けながら、堪らず赤ずきんは独りごちました。
「もう、どうしたらいいの?」
狼を大好きな気持ちが止まりません。
こうなってしまってはもう仕方がありません。
狼を自分のものにしてしまおうと、赤ずきんは腹をくくりました。
実はキッチンにいたおばあさんの所へ足を運びます。おばあさんはちょうど赤ずきんの持ってきたぶどう酒を吟味していたところでした。
「おばあさん、ちょっといいかしら」
「おや赤ずきん、どうしました?」
急に孫から話しかけられておばあさんは少しだけ動悸が激しくなりました。決して色恋ではありません。
慌ててぶどう酒のビンをテーブルに置きます。
「少しの間、ベッドを貸して欲しいの」
「え?」
先程狼にベッドを貸したと思ったら、今度は孫です。何故急に自分のベッドが人気を博したのが訳がわからず、おばあさんは混乱してしまいました。
「あ、あのおばあさん」
「おや、狼まで」
「すみません、私からもお願いします」
おずおずと狼がやってくると、おばあさんの相好が崩れました。それを見た赤ずきんの顔が不機嫌そうな表情に変わります。
「貸すのは構いませんが…でもどうして?」
「決まっているでしょう、狼と一緒に使うのよ」
憮然とした表情でぶっきらぼうにおばあさんに言い放つ赤ずきんを、狼が慌ててたしなめます。
「赤ずきん、おばあさんにそんなこと言わないで」
「あら、ホントのことじゃない」
「で、でも恥ずかしいから」
狼が頬を赤く染めて、赤ずきんの服を引っ張ります。困ったように耳がぴこぴこと動きました。
それを見て、今度は赤ずきんの相好が崩れます。
「可愛い…。大丈夫よ、今からもっと恥ずかしいことするんだから」
赤ずきんが狼の手を握りしめて、そっと頬に口付けます。照れた狼がそれでも嬉しそうに瞳を細めて尻尾を振りました。
こんなにデレデレの孫を見たことがなかったおばあさんは、大きくぽかんと口を開けて二人を凝視した後に消え入りそうな声で呟きます。
「ああ、私の予感が的中…分かってはいたけれど孫が肉食…」
「じゃあよろしくね、おばあさん」
おばあさんの呟きなど完全に聞く耳すら持たない赤ずきんが、狼を抱きしめながらぴしゃりとお願い事を叩きつけました。
※※※※※※※
「おや、おばあさん。どうされました?」
おばあさんが玄関前のポーチで一人座り込んでいると、猟師が通り掛かりました。
両足が不自由なために車椅子で移動をしているこの猟師は、鳥や獣を仕留めたりといった通常の猟師の仕事は出来ません。
その代わりと言ってはなんですが割と手先が器用だったので、おばあさんの編み物のお手伝いや家具の組み立て、電気の配線など住民の細々としたヘルプを生業としていました。
「あ、猟師さん」
お互いに片手を上げて挨拶を交わします。おばあさんはやや涙もろく朴訥なこの猟師を割合好ましく思っていました。
一度、孫の見合い相手にどうかと思ったこともありましたが、この人柄の良い猟師のことを思うととても暴君な孫を薦めることは出来ませんでしたので秒で取り下げました。
「お家の中に誰かいらっしゃるんですか」
「ああ…、今は赤ずきんと狼が」
ちらりと家の方に視線を投げます。
今頃狼は孫に食べられているのでしょう。ほぼ友達がいない孫と優しい狼が仲良くなってくれると良いとは思っていましたが、こうなってしまうと狼が孫のことを好きでいてくれることだけが唯一の救いです。
「なぜ、おばあさんだけ外にいるんですか?」
猟師の真っ当な質問に、おばあさんは眉をひそめて答えました。
なぜ外にいるのかって?中には居られないからですよ。何が悲しくて孫がイチャついている空間に一緒に居なければならないのでしょう。部屋が違うから良いという問題でもありません。
「まあ、私は邪魔でしょうから」
「?」
「赤ずきんが幸せなら、それでいいんです」
「良く、分かりませんが…」
分からなくて全く問題はありません。
もうこの話題を早く終わらせようと、おばあさんは赤ずきんが持ってきたぶどう酒を取り出しました。
グラスもきちんと2つ、揃えています。
「まあまあ、猟師さんも良かったらいかがです?一杯」
「ああ、ぶどう酒ですか。これはありがたい」
猟師が嬉しそうに顔を輝かせました。
彼が割合飲める口だということは、この前も一緒に酒を酌み交わしたのでおばあさんは知っています。
「もう少し時間がかかるでしょうから、良かったら一緒にお話でも」
「構いませんが、赤ずきんと狼二人きりで大丈夫なのですか?」
グラスにぶどう酒を注いで猟師に渡しながら、おばあさんは溜息をつかざるを得ませんでした。
過去に、うっかり孫の逢瀬の邪魔をしてしまったことがあります。
おばあさんは何も悪くなかったのに大変な目にあいました。その時のことはもう思い出したくもありません。
「二人きりにしておかないと後で我々がどうなるか分かりませんからな」
「我々…?」
不思議そうに猟師が訊ねてくるのを適当に流しながら、おばあさんは自分のグラスにぶどう酒をなみなみと注ぐのでした。
「おばあさん、ありがとう。もういいわ」
おばあさんが丁度三杯目のぶどう酒をグラスに注ごうとした時、玄関のドアが開いて赤ずきんが出てきました。
満足したのかツヤツヤと輝いているその顔を見ていると、我が孫ながら何となく顔を背けたくなるのはおばあさんだけでしょうか。
「あ、あのありがとうございました」
赤ずきんの後ろから、狼も出てきます。
赤ずきんに掴まりながら少しだけひょこひょこと歩いている姿を目にして、あまり酷いことをされていなければいいのだけれどと、おばあさんは心配になりました。
「おや赤ずきんと狼、もうよろしいんですか」
「あ、狼!」
隣りにいた猟師が急に驚いた声を張り上げたので、おばあさんはびっくりして心臓が止まりそうになりました。
狼は猟師の顔を見ると、嬉しそうにぴこぴこと耳を動かしました。
「あ、猟師さん」
猟師は車椅子の上から狼にきちんとお辞儀をして、和やかに話し掛けます。
「この前は助けて頂きありがとうございます。頂いた花はまだちゃんと花瓶の中で咲いていますよ」
「わあ本当?良かった…」
「貴女、猟師さんと知り合いなの?」
それまでずっと黙って狼と猟師の会話を聞いていた赤ずきんが、狼に問い掛けます。
孫の顔が不機嫌そうに歪んでいるのを、おばあさんは見逃しませんでした。
「この前車椅子の車輪が溝にはまってしまっていたから助けてあげたの。そのお礼にって、一緒に四つ葉のクローバーを探してくれたから、お花をあげたのよ」
そんなことを知ってか知らずか、にこにこと嬉しそうに狼が話します。猟師も狼につられて、嬉しそうに頷いています。
赤ずきんの顔がどんどん不機嫌になってゆくのにも気付かないようです。
「…ふうん、一緒に探したの…」
「ふふ、赤ずきん、やきもちやいてくれてるの?」
ついに赤ずきんがそっぽを向いてしまい、その態度に気付いた狼がやっぱり嬉しそうに尻尾を揺らしました。
「別に、そういうわけじゃないけれど」
ほんのりと、耳まで赤く染めた赤ずきんが腕を組んで背中を向けます。
おばあさんは孫のそんな態度を目にしたのは初めてなので、ついつい凝視してしまいました。
狼の尻尾の動きがぱたぱたと激しくなります。
「可愛い…。ね、私が好きなのは赤ずきんだけよ?」
そう言って、ぎゅっと赤ずきんに抱きつきました。
赤ずきんも何だかんだでとても嬉しそうです。
ぽかんとしているおばあさんでしたが、ハッと我に返って猟師を見ました。
猟師も二人の姿をにこにこしながら見ています。やっぱり人柄の良い、心根の優しい男です。
「…まあ、こんな次第ですから。猟師さん」
「そうですねおばあさん。私は帰るとしましょう」
それでは、と猟師はまた深々とおばあさん達にお辞儀をすると、車椅子を動かしながらゆっくりと帰ってゆきました。
※※※※※※※
猟師が帰っていく後ろ姿を、赤ずきんと狼とおばあさんはそれぞれ見送りました。
猟師の姿が完全に見えなくなった頃、赤ずきんがふぅと小さく溜息をつきます。振り返った狼が、そっと尻尾を振りました。
「私もそろそろ帰らなくちゃならないわね」
その言葉に、狼の耳がみるみるうちに垂れてしまいます。尻尾も、力を失ったようにしょんぼりとしてしまいました。
あまりにもわかり易すぎる狼の態度に、赤ずきんは胸がキュンとしてしまいます。
「…赤ずきん、帰っちゃうの…?」
「貴女も一緒に来る?」
もう、自分の家に連れ帰ってしまおうか。そう赤ずきんは考えました。
お母さんには後から何とでも言えばいい。それよりも、狼のことを手放したくはありません。
しかし狼はふるふると首を振りました。
「ううん、赤ずきんにはお母さんがいるもの」
そう言えば、狼にお母さんはいるのでしょうか。お父さんは、きょうだいは、家族はいるのでしょうか。赤ずきんは、にわかに狼の家族構成が気になってきてしまいました。
「…貴女、一人で森に住んでいるの?」
「ええ、でも森のお友達がいるから寂しくないわ」
赤ずきんの問い掛けに、おずおずと狼が頷きます。やっぱりです。
ひとりぼっちで森の奥に住んでいる狼のことを思うと、赤ずきんは居ても立ってもいられない気持ちになりました。森のお友達なんて、一体何人なのか分かったものではありません。もしかしたら何匹何羽の世界とも考えられます。
どうにかしたいという思いが、口をついて出てしまいます。
「…私も連れて行って」
「え?」
「私も、貴女とそこで暮らすわ」
赤ずきんは、自分でも考えていなかったことが口から出てくることにびっくりしていました。
けれどそれ以上にびっくりしている狼を見ていると、何だかこういうのもいいわね、なんて思ってしまいます。
行きあたりばったりでも、無計画でも、今この瞬間に狼を離したくない気持ちは本当なのですから。
「赤ずきん!」
「いいでしょ、おばあさん」
赤ずきんがおばあさんを睨みつけると、大口をぽかりと開けていたおばあさんが、慌てて口を閉じました。
孫のこんな姿を見るのは初めてで、しかも狼と一緒にいる孫は自分の知らない姿をたくさん見せるので、おばあさんももうついて行けません。
「私は別に構いませんが、お母さんにも聞いてみませんと」
とは言え、孫の幸せがおばあさんの幸せでもあるのです。孫が狼と一緒にいたいというのなら、おばあさんもそれに賛成します。
もし何かあれば、お母さんにも口添えをしてあげようと思ってもいます。
何だかんだで、おばあさんは赤ずきんのことがとても大切なのでした。
「お母さんもきっと許してくれるわ」
赤ずきんがきっぱりと強い口調で言い放ちます。もう心は決まっているのです。
そうして、狼の手をそれはそれは優しく握りしめました。
狼の尻尾が千切れるほど激しく振られます。
その瞳からは、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出しました。
「ほ、ほんとに?嬉しい、赤ずきん…」
「もう、泣かないで?」
可愛くて愛おしくてたまらない狼の頬に優しくキスをして、赤ずきんはその身体をぎゅっと抱きしめたのでした。
※※※※※※※
「そういうわけだから、お母さん。私は狼と一緒に森で暮らすわ」
突然の赤ずきんの宣言に、お母さんは表情こそ変えませんでしたが内心では驚いていました。
今までにも似たようなことはありましたが、今回はどうやら違うようです。まず赤ずきん自身が大変に乗り気であるということ。
今まではどちらかというと相手が赤ずきんに夢中になっているイメージが強い印象でしたが、今赤ずきんが連れてきているこの可愛らしい狼は、もうそこにいるだけで赤ずきんがデレデレになっているのが分かります。
こんなにも変わってしまうものなのね、とお母さんは尊敬の眼差しを狼に向けました。
「分かりました。赤ずきん、身体には気を付けてくださいね」
「あの、赤ずきんのお母さん…本当にいいんですか…?」
おずおずと訊ねてくる狼のその物言いに、お母さんの相好も柔らかく崩れます。
こんなに優しく可愛らしい狼が、一種ケダモノのような自分の娘をどうしてこんなにも好いてくれているのか、お母さんには全く理解が出来ませんでしたが、狼の可愛らしさの前ではそんなことはどうでも良く思えてきます。
ああ、こんな娘が欲しかった。赤ずきんも可愛い娘ではありますが、狼には遠く及びません。
お母さんは、ほぅ、と溜息を一つつきました。
「大丈夫ですよ、狼さん。貴女になら」
「ど、どうして」
驚いたように狼の耳がぴこぴこと動くのを、お母さんはたまらない気持ちで見つめます。
横からの赤ずきんの鋭い視線には、全く気付いていない振りをしました。
「それは、貴女が赤ずきんのことを大好きでいてくれるからですよ」
「…お母さん…」
「あら、私の方がもっと大好きだわ」
「赤ずきん、少し黙っていてください」
耐え切れずに口を挟んできた赤ずきんに、お母さんはぴしゃりと言い放ちます。
今は狼と会話をしていて、しかもとても良い場面なのです。
娘といえども、邪魔をすることは許されません。
お母さんの謎の気迫に押されて、赤ずきんは唇を尖らせて黙りました。
「…」
「ふふ、赤ずきんが怒られてる」
お母さんに叱られて、少しバツが悪そうに膨れている赤ずきんを狼が優しい眼差しで見つめます。
柔らかな尻尾がぱたぱたと揺れます。
お母さんは思わずうっとりと溜息が出てしまいました。
そっと、狼の手を取って握りしめます。
「狼さん、赤ずきんをお願いしますね」
「はい!赤ずきんのこと、ずっと大切にするわ」
それはそれは嬉しそうに、誇らしげに、幸せそうに。狼が元気いっぱいにお母さんに伝えます。
任せてください、と言うように尻尾が激しく振られました。
お母さんが胸を押さえて苦しげに呻きます。
「…ああ、狼さんてほんとに可愛い…」
「お母さん、狼は私のよ?」
もしかしたら母と好みが丸かぶりなのかもしれない。赤ずきんは初めて知る事実に恐怖を感じながら、そっと二人を引き離したのでした。
※※※※※※※
「だいぶ暗くなってきたわね」
狼と連れ立って、赤ずきんは森の奥にある狼の家へと向かって歩いていました。
赤ずきんの少しだけ前を歩く狼の、柔らかな尻尾がゆらゆらと揺れるさまを見つめているだけで赤ずきんはもうたまらなくなってきてしまいます。
何度も己の理性と攻防を繰り広げ、ふと気が付いて周りを見回した時には、辺りには徐々に夜の帳が下り始めていたのでした。
「赤ずきん、大丈夫よ。私夜目がきくから」
狼がちらりと赤ずきんを振り返って、得意気に胸を張ります。誇らしげに耳がぴん、と上を向きました。
人間と違って、狼は夜でも目が見えるのでしょう。暗闇に視界を左右されないなんてとても便利だと、赤ずきんは少し羨ましくなりました。
「そうなの?便利ね」
「暗くなっても、あ、赤ずきんのこと守ってあげれるんだから」
自分が言ったセリフに頬を赤く染めている狼がとても可愛らしくて、赤ずきんは思わず動悸が激しくなる胸を押さえます。
「…なにそれ…可愛い…」
「もうすぐ家につくからね」
嬉しそうに尻尾を揺らしながら、狼がくるりと振り返りました。
そのまま後ろに歩きながら、にこにこと赤ずきんに微笑みかけます。
「ええ、分かったわ」
可愛くてしょうがないけれど、ちゃんと前を見て歩かないと危ないわ。
そう思った赤ずきんが狼に手を伸ばそうとした時でした。
「はい、赤ずきん。私と手を繋いで」
ひょいと目の前に狼の手が差し出されて、突然のことに赤ずきんは面くらいます。
急にどうしたというのでしょう、そりゃ手をつないで良いならずっとつないでいたいです。
何なら手をつなぐよりは抱きしめたいと考えます。どちらにせよ、離したくはないのですから。
「え、どうして?」
「いいから」
不思議がる赤ずきんに対して、珍しく狼がぐいぐいと強気に自分の手を差し出します。
この手を引っ張って抱きしめたら狼は可愛い反応をしてくれるかしらと、赤ずきんは邪な考えを抱きました。
「いいけど…何かあるの?」
途端に狼の口調がしどろもどろになってきます。
困ったように耳がぴこぴこと忙しなく動きました。
「えっと、道があんまり良くないし…」
確かに舗装のされていない砂利道ですが、それでも通る人は割といるらしく、足場はきちんと均されています。躓きそうな穴や大きな石、切り株のようなものもここでは見当たりません。
何より、暗くなってきたとはいえ、まだまだ赤ずきんの目でもきちんと辺りを判別する事はできます。
「大丈夫よ、足場も悪くないしまだちゃんと見えるわ?」
むしろ手をつないでしまった方が狼が危ないかもしれないのです。
一応、まだ理性が保たれている赤ずきんは優しく狼に語りかけました。
すると、狼の尻尾が不服そうに自身をぱたんぱたんと叩き始めます。
おや、と狼の顔を見ると、赤く頬を染めたまま不機嫌そうに頬を膨らませているではありませんか。
「や、やだ。…つなぐの。つなぎたい…」
「もう駄目。可愛いすぎる!」
手をつなぐのは後にして、とその行為をすっ飛ばした赤ずきんは、狼を引き寄せて強く抱きしめたのでした。
※※※※※※※
道中様々なことがありましたが、ようやく狼の家に辿り着いた頃には、辺りはすっかり薄暗くなっていました。
「ここが私のお家よ」
狼の家は小ぢんまりとした一軒家でした。お花がたくさんのアーチには丸い電灯がついており、玄関のドアの上にも小さな灯りがともっています。
クリーム色の壁に赤い屋根、煙突と小さな庭のある、それはとても可愛らしいお家でした。
何よりも、狼が丹精込めて育てているのでしょう、色とりどりの小さな花たちが、びっしりと庭中に咲き誇っています。
「まあ、素敵。お花がたくさんね」
ふんわりと夜風に乗って、花の甘い香りが漂っています。狼の香りとどちらが甘いのかしらと赤ずきんがうっとりしていると、狼がはた、と立ち止まりました。
「あ、…どうしよう」
「どうかしたの?」
ううん、と腕組みをした狼が首を傾げます。
尻尾が困ったようにゆらゆらと揺れました。
そうして、赤ずきんを見上げます。
「あの、ベッドが1つしかないの…」
「?一緒に寝ればいいじゃない」
狼は一人で暮らしているのですから、それはそうでしょう。しかしここまで来て、まさか別々に眠るなんてことは赤ずきんは全く考えていません。何なら寝かせる気もありません。
例え2つあったとしても、赤ずきんは狼と一緒のベッドを使う気満々でした。
困っている顔も可愛いわと、赤ずきんはうっとりしながら狼の柔らかい耳を撫でてあげます。
「…えっと…」
それでも狼の顔は晴れません。もごもごと、何か言いにくそうにしています。
撫でられた耳がぴぴぴ、と優しく赤ずきんの指を叩くものですから、赤ずきんはまた動悸が激しくなってきてしまいました。
「どうしたの?」
まだ何か言いたいことがあるのでしょうか。
だったらちゃんと聞いてあげなければいけません。
赤ずきんは優しく耳をひと撫ですると、そっと狼の頬を両手で包んで自分の方へと顔を向けさせました。狼の綺麗な瞳が自分を優しく見つめます。
「…ど、どきどきして眠れないかもしれないわ」
玄関の灯りに照らされた狼の頬が、みるみるうちに赤くなってゆきます。
その頬を包んでいる自分の両手も一緒に熱をもっていくのを実感した赤ずきんは、思わず空を見上げました。
夕暮れの夜空に、一番星がきらめき始めています。
「…」
「赤ずきん?」
「…ねえ、私貴女のこと一生大切にするわ」
ぽつりと、赤ずきんの口から言葉が飛び出して、自分でもびっくりしてしまいます。
考えがまとまる前に口から出てしまうなんてこと、今までの赤ずきんからは考えられないことでした。
さっきだってそうです。狼を一人にしたくなくて、いいえ、赤ずきんが狼と一緒に居たくて。どうしても狼を離したくなかったのです。
「え?」
「約束するわ。だから…結婚しましょう」
狼を離したくなくて、一生大切にしたくて、自分のものだけにしたい赤ずきんが考えたのは結婚でした。我ながらとても良い思い付きだと誇らしくなります。
そうです、結婚して狼を自分のお嫁さんにしてしまえば良いのです。そうしてずっとずっと、狼と一緒に居たいと赤ずきんは思いました。
「赤ずきん…!」
目を大きく見開いた狼がふるふると震えながら、耳をぺたりと倒します。
その瞳が涙に濡れて、狼が嬉しさに泣きながらぎゅっと赤ずきんに抱きついてきたのは、それから数秒後のことでした。