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【小説】可笑しな街

 少年は深い緑の中で彷徨い続けている。空は緑に覆われ、光が殆ど通らない。周りには靄がかかっていて、ジメジメとした、陰湿な空気が漂っている。

 少年は逃げてきた。「お菓子の街」と称された故郷からただひたすらに逃げてきた。「お菓子の街」は旅行客の多い、明るい街だった。街はうっすらピンクがかった空気を纏っている。街の至る所から甘い匂いが漂っていて、煙突から煙がモクモクと空へ溶け込んでいく。どこかしこから流れてくる陽気な音楽に、街の人々は一日中踊り明かしている。犬や猫さえも一緒になって踊っている。この異質で異世界感のある素敵な街に来るために、密入国を図る者も少なくなかった。
 隣の家に住むお爺さんは、会うと必ず「よぉ坊や、飴でも食うかい?」と言い、チョコレートを渡してくる。口の端からは涎が垂れそうになったお爺さんはとびきりの笑顔だが、歯の本数があまりに少なく、少々気味が悪い。少年はそれを受け取るだけ受け取るが、家で廃棄するか、道で寝そべっている野良犬にあげていた。少年はそんな何もかも明るいこの街が苦手だった。どこもかしこも眩しくて、馬鹿みたいに騒いで、「♪」が溢れる街に心底イライラし、目を自然に開くことができなかった。

 ある日、少年はいつもの街の眩しさから逃れようと、とにかく暗い場所を探すため歩き始めた。歩き始めて程なく大きな橋を見つけた。橋の上では大音量で音楽をかき鳴らす車やトラックで渋滞していた。どうやら数キロメートル先で交通事故が起きたようだった。そんな状況でも皆呑気にお菓子を頬張りながら陽気に前進するのを待っていた。そんな間抜けな人々の姿にも少年は遠目で嫌気がさしていたが、ふと橋の下を見た時、「あっ、」と小さく声が出た。
 暗かった。ようやく逃げ場を見つけた。このお菓子で太った集団の、甘ったるい空気から逃れられる空間だ。そう確信した少年は、河川敷を一目散に駆け抜け、あっという間に橋の下に到着した。
 ずっと細く萎めていた少年の目が、大きく開いた。オアシスのような空間、そんな場所では微塵もなかった。そこに広がっていたのは、隙間もないほど敷き詰められた人間の山だった。もはや生きているのか死んでいるのかも分からない。とにかくそこにあるのは、人権などとうの昔に破壊された漂流物のような人間と、大量の注射器だった。喉に奥歯を詰まらせたかのような呻き声がそこら中から鳴り響く。街で匂うあの甘い香りをドブに1ヶ月漬けたような刺激臭が、少年の鼻へ襲いかかる。少年は思わず息を止めた。まともに呼吸を取れないほど、人間からの腐敗臭や、真っピンクの川から溢れ出る糖尿病のような甘酸っぱい臭いが襲いかかってくる。少年の足は子鹿のようにガクガクと震えていた。
 少年はこの街が大嫌いであったが、少年自身、生まれてから十数年の間、ただただ馬鹿みたいに明るい街だと思っていた。純粋に明るいからこそ、この街が嫌いだった。呑気で危機感がなくて、そんな陽気な街が世界的に人気であることが許せなかった。これにはある種の嫉妬も含まれていたのかもしれない。世界に認められる街が受け入れられない自分に劣等感を感じもしていただろうか。
 そんなこの街は、真っ暗な闇を抱えていたのだった。少年が十数年抱いていた違和感や嫌悪感に、くっきりと形があることを脳裏に突きつけられた。橋の手前にいた1人の男性が、こちらへ手を伸ばしてきた。掌には、1つの飴玉が乗っていた。身体も飴玉もあまりに汚れていて、鼻を抉るような刺激臭が一層強くなった。「火、。これとかして、注しゃ、、き」
そよ風のような実体のない弱った声でそう言うと、もう筋力も衰えきったクレーンゲームのような腕で、そばにあった注射器を見せつけてきた。男性は笑っていた。身体は、炙られたかのように萎縮し、黒くなっていた。近くの寝そべった大きな犬が「クン、、、」と鳴いた。

 一度すくんだ少年の足だったが、男性に手を差し伸べられた途端に動き始めた。前を見ずに走り出した。どこにも行くあては無かったが、とにかく走り出した。この甘い匂いが微塵も感じられなくなって薄らがかったピンクが別の色になるまで、とにかく走った。橋の上ではいまだに人々の笑い声が聞こえ、クラクションでリズムを取る音が鳴る。あまりに不快な音で、でも何か苦しんでいるようにも思えた。そして現在の深い緑の中に至る。
 ここが何処なのか、今は朝なのか夜なのか、ここで生活ができるのか。何もかもが分からなかったが、少年には開放感とも、虚無感とも取れる複雑な感情に陥っていた。誰もが憧れていた少年の故郷は、あまりに残酷で、脳みその回転していない馬鹿な民衆が作り上げた幻想の国だった。
 少年は緑の中で、少し休憩を取ることにした。大きな岩陰に座り込み、すぐ隣にあった小さな川で水を飲むことにした。そこには先客で1匹の狸のような動物が川に口をつけていた。少年の虚無の脳裏に、1匹の動物が入り込み、ようやく冷静になれた気がした。
 水を飲み終えた少年は、着ている服で口を拭い、手を入念に洗った。そして無意識のうちに、少年の口角は上がっていた。

「あんなやつら、全滅すれば良いのに。」

少年は再び走り出した。さっきまでよりも空中にいる時間が長く、足取りが軽かった。

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