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【小説】惜春

 春が嫌いだ。別れのシーズンだの卒業シーズンだのと、節々から環境の変化を惜しむ声が聞こえてくるから。夜の居酒屋では、大学生のサークル集団が送別会を開いている。花束と寄せ書きを持って泣いている。嬉し涙なのか、悲し涙なのかは分からない。前にテレビで、右目から多く出るのが嬉し涙で、左目から多く出るのが悲し涙だと言っていたのを見た。あいつらは両方の目から大量の涙が溢れていた。そんな純粋に感情を剥き出せるあいつらが憎くて馬鹿げていると思いながら、僕はそれを横目にカウンターで呑んでいた。側から見るとあいつらは真っ当で健全な集団で、むしろうかない顔で1人で呑みにくる僕の方が珍奇な姿をさらしていることは自分でも承知している。それでも今僕はあいつらを軽蔑したいのだ。

 僕は別れを惜しむ人が嫌いだ。環境が変わっても、日本にいればいつかは会えるのだから。僕は友人の引っ越しや、先輩の卒業を毎年経験するわけだが、一度も寂しいと思ったことはない。本当に会いたいと思えば、会うことはできるから。むしろこの季節で、本当に大切な人かそうでないかの選別ができて、清々しい気持ちにすらなる。
 僕はトイレに行く道中に、集団の端に座っていた女性の寄せ書きを覗いた。一瞬細目で首を伸ばしただけだったから、全てを見ることはできなかった。人の寄せ書きを覗くのは、なぜか着替えを覗くのと同じくらいの罪悪感があった。いっそのこと持ち主に覗きがバレて、怒られて謝ってしまいたいとも思った。寄せ書きには、「エミ先輩、大好きです 由香」「東京に行っても私たちのことは忘れないでください! かなで」「結婚してください S・K」「えみりん行かないで! 圭介」と書かれているのが見えた。どれもため息が出るような言葉ばかりだったのだが、唯一「結婚してください S・K」という言葉にだけは好感を持てた。この言葉だけは呼吸をしていると思った。僕は意外と現実主義なんだなと、ふと感じた瞬間だった。未来あるS・K氏には是非頑張って欲しい、そう願いを込めて僕は放尿した。

 トイレから出ると、卒業メンバーだけが先に店を出る準備をしていた。どうやら卒業生だけで2次会をおこなうようだった。別れを惜しむ様子は全面に出しながらも、片づけの様は不自然なほどに早かった。形式的な会を早く終わらし、自分たちだけで別れを愛しむ乾杯をしたいという思いが、こちらからは見え見えであった。後輩たちも一緒に立ち上がったが、店の外まで見送るのではなく、自分の席で先輩たちとの最後の挨拶を交わした。先ほどまでの涙が嘘であるかのような、形式的な流れが出来上がっていた。厳密にはあの涙は嘘ではなく、本心から出た涙であることに間違いはない。ただ彼らは、この短い別れのシーズンで至極効率的に喜怒哀楽全ての感情を揺らしたいのだろう。僕が言うことには説得力のかけらもなくなるのだが、若者がこうも生に対して焦る姿を見ると、不安定で危険な臭いが漂い、心配の念が押し寄せてくる。
 卒業生がゾロゾロと店を出て行った。僕の後ろを大きな声を出しながら通った。その数秒後に、1人の男が走って追いかけるように店を出た。そして彼は店の前で立ち止まり、歩き始めている卒業生に向かって声を張りあげた。

「エミさん!僕と付き合ってください!もし遠距離になったとしても必ず幸せにします!」

 おそらく彼がS・K氏だろう。最後の最後に執念の叫びだった。僕の席からは卒業生の姿は見えなかった。しかし、俯いて店に戻ってきた様子を見ると、結果は言わずもがなだった。あの場所での突然の告白はまずかったのではないかと僕は思った。急に彼らの関係から現実味を薄めるような行動だっただろう。でも、付け焼き刃で戦いに挑んだ彼の姿は勇敢で、大馬鹿で、羨ましかった。僕も現実なんか無視して馬鹿なことをしたくなった。

「お客さん、急に泣いてどうしはったんや」

 僕は泣いていた。どういう思いで泣いたのか、僕には分からなかった。ムカついたし、嫉妬したし、悔しかったし、面白かったし、哀しかった。哀しい。
 今朝、祖母が亡くなった。3ヶ月ほど前から心構えはしていた。でも実際に亡くなった時、やっぱり涙が出た。家で家族全員が泣いた。あの陰気な空気がいてもたってもいられなくなって、僕は家を飛び出したのだった。亡くなった当日は、意外と準備は少ない。忙しくなるのは明日からだ。今日は夜まで日常の空気を吸おうと思って、この居酒屋に入ったのだった。
 涙が出た途端、またいっそう現実に引き戻された気がした。この居酒屋で、一番別れを惜しむのに相応しいのは僕のはずだった。別れを惜しむとは僕みたいに、もう会えない人がいる状況で使うべきなんだ。それなのに、ほんの少し会いづらくなるだけで泣き喚くあいつらのせいで、惜しみ損をした。ムカついたけど、同じくらいに感謝もしていた。

「なんやお客さん、えらい右目ばかり涙が出とるで。涙レースは右サイドの圧勝やな、ハハハ」

 カウンター越しから店長らしき人物がつまらない冗談で励ましてくれる。テーブル席のサークル集団は終始僕なんかには見向きもしなかったが、一方的に助けられた気がした。彼らは、在学生だけでの飲み会を楽しんでいる様だった。先ほどまでよりもずっと自然な笑顔だった。S・K氏だけは、不貞腐れているようで、酒が進んでいない様だった。
「また会えるよ、絶対」
 S・K氏を見習って、僕も現実とはかけ離れたところへ希望を抱いた。今流している涙は、間違いなく嬉し涙だった。
 別れを惜しんでる時間なんてない。しんみりとしたムードに趣を感じさせようとする春が、僕はやっぱり嫌いだ。

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