虫の声を聞く
憂はとぐろを巻くばかりで何もしてくれない。トリモチに引っかかったねずみみたいにベッドに張り付いていた僕は身を起こした。ぼんやりした頭で喉の渇きを感じていた。ベッドから流しへは光年くらい離れているように思えて途方もない。いま午後の四時で、生ごみに群がる小虫たちが三角関数の加法定理について話し合う声を聞いていた。部屋の中は蒸し暑く、締め切った八畳の部屋の中に籠った空気の澱みが肌に纏わりつくのが難儀で着ていたシャツを脱ぐ。薄く汗をかいていた体の表面にかぶさろうとする部屋の空気を逃がそうとガラス戸を開けた。冷えた外気が吹き抜けて汗を冷やし、僕は換気が終わるまでの間うずくまった。腹が冷えていた傷んだ。具合が悪かった。縮こまりながら、あと先もわからぬ将来が恐ろしかった。
待ち合わせの時間をすぎてから友人から今日は来れないと連絡を受けた。前から話していた食事の話は一通のメッセージで取り消され、僕は待ち合わせ場所の酒場の前に突っ立っていた。目の前を通り過ぎる犬を連れた子どもや若い女の群れ、年寄りの女や醜く太った中年のサラリーマンが、街の風景に馴染んだ彼らの顔が、僕の目の前を通り過ぎていく様子を眺めていた。皆知らない人だ。友人が指定したある町の隅で、足許に掘られた側溝で虫が獲物を巡って争う声を聞きながら、僕は僕という生き物がいることを俯瞰して見ていた。
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