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冬と夜のあいだ

 十一月最後の日曜日、最後に彼女と寝ておくべきなんだろうか。
 雨の紗幕が信号や車のテールランプの赤いひかりをぼんやりとぼかしていた。
 都会にはにおいが溢れている。すれ違う女の香水の甘いにおい、ぼろぼろの服を来た初老から漂うしょっぱいのと酸っぱいのが合わさったにおい、ラーメン屋から漏れる豚骨のにおい、トラックの黒い排気ガスのにおい、口許からこぼれる煙草のにおい。このまま夜の街の隅を歩きながらにおいに溺れていく気がする。
 ユイに本を貸したままだったことを思い出した。茸沢幽夏の文庫小説。二年前に死んだ女流作家で、退屈な純文学を書いていた。サスペンスでもなんでもない彼女の文学は、何にもない日の休日にもってこいで、ページがめくれるたび、胸の裏側、内臓の深部がことりと音を立てるような気がする。
 ユイの部屋は駅から真っすぐ行ったところの墓地のそばにあり、ベルを鳴らすとめんどうくさそうな調子でユイは部屋のドアを開けて出てきた。ユイの部屋からは安い日本酒のにおい鼻の先から頬にかけて頬にかけてべたべたと張り付くようだった。
 またにおいだ。
「酔ってるん」
「どう。飲む」口の端を吊り上げて冗談ぽくわらうユイの顔は、すっぴんで、薄暗い部屋の中で脂の浮いた鼻頭がうすくひかっていた。彼女はぴたりとした白いインナーシャツを着ていた。インナーの張り付いたことによってできた健康的なにのうでのつっぱりや胸のふくらみが服の皺をつくって波打った凹凸になり、よわい照明の部屋の中でその陰影をふしぎと艶めかしく見せた。まるままの裸ん坊よりむしろ、彼女はぬるりとした色気を纏っている。
「本返して」と僕は言った。
「ああ、うん」どこやったっけなあ。足許の床をひっくり返すようにして、ユイは敷きっぱなしの布団の枕元からひょいとした調子で一冊の文庫本をつまみ上げ、玄関の戸口に戻ってきた。
「はい、これね」
 手渡された黄色と青の文庫には、酒と彼女のにおいがした。
「どうだった」
「読んでない」
 僕はユイの部屋をあとにした。アパートの階段を降りたところで黒い猫が駆け足で駆け寄ってきた。
「よう、よう。どうした。お前、外で暮らしてんのか」
 僕の足許に三角の頭をこするように歩く猫の目の端には、大きな目脂がこびりついている。
 猫の骨ばった頭を撫でさすった。耳ばかりが独立した自我を持ったようにぴんとしていた。
 夜の寒さにまぶたがぴくりと痙攣して目を閉じた。明日この街に雪が降るらしい。

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