波の鰭
十月も半ばを過ぎていた。〈4分ほどお待ちください〉とアナウンスが流れ、彼は窓の向こうに目をやった。電車は目的のひとつ前の駅で停車していた。そこには人気のない風景が広がっていて、伸び放題の草木に、トタン張りの小屋みたいなたばこ屋、その奥に見える竹林には霧が立ち込めていた。朝の五時、外はまだ夜と朝の混じるせいで青白い。
霧の中に向かって女の子がひとり、歩いて行くのが見えた。形のいいショートヘアに黒のレザージャケット、靴は履いていないらしく裸足のように見えた。彼はちょっと好奇心で彼女の後を追ってみようかと思ったけれど、ここから腰を上げて、電車を降りて、改札を抜け、建物の間を縫い、彼女のいる霧の中までたどり着くことの手順の多さが面倒になってやめた。だいいち、こんな辺鄙な駅に下車する奴なんてひとりもいないのだ。
電車にはもうほとんど乗客は乗っていないようだった。彼のいた二号車にも、彼と、二十歳くらいの若い女が向かいの座席に腰掛けているのみだった。
車両内に残ったちいさな焚き火の跡が二人の関心を集めるでもなく女の足許に残されていた。女の顔は(彼はちらりと盗み見ただけだったけれども)すっきりと整っていて、傷のない均一な肌に 紅を差した唇がちょうどよく収まっていた。長い髪は後ろで束ねられているものの、後毛の一本や軋みといったある種の不潔性は女は見せるところがなかった。女の背後にある車窓には生い茂る葉々が一面の広がりを見せていて、その様が、まだ若く美しい女の姿を背後からそっくり丸呑みしてしまう怪物のようでもあると、彼はしばらくその風情を眺めていた。そのうち女が出ていき、電車の扉が閉まり、電車は彼を乗せて動き出した。窓越しの葉々は車窓に引き摺られてずっと遠くに見えなくなった。
彼は夢を見た。彼は月にいて、動く宇宙ヘルメットのうしろを歩いていた。宇宙ヘルメットは、彼をどこかに案内してくれるらしかった。あたりには誰もおらず、ずうっと遠くで、赤い星と青い星が暗い空の中にぽっかりと浮いていた。月の表面にできた円いクレーターのふちを避けるように3.5kmほど歩くとバス停に着いた。そのうちバスが来て(二階建ての黄色いバスだ)彼はバスに乗った。宇宙ヘルメットは乗らないらしかった。
「君は、来てくれないのかい」と彼は云った。
「ああ、君とはここでお別れだ」と宇宙ヘルメットは応えた。扉が閉まり、バスは暗い空に向けて走り出した。黄色いバスは火星をすぎ、木星でひとり乗せて土星に着いた。中世ヨーロッパ調の建物が軒を連ね、その高くから雨雲が分厚く垂れ込めていた。天気はひどい雨で、彼は傘を持っていなかったけれど、心ばかりがふくふくと高揚して、黒のコートや鞄が濡れてしまうのもお構いなしに、ちょっとだけはしゃいだ。気になるあの子に写真を撮ってメッセージを送ろうとしたけれど、土星は圏外だったし、その子からの返信が四日経っても来ていないことを思い出してやめた。彼は旧友にもあった。旧友は木星で乗り合わせたひとりだった。
「久しぶり、ずいぶんはしゃいでいたね」とその友人が笑いかけ、彼は無性に恥ずかしく、顔をすっかり赤くしてしまった。
終点を知らせるアナウンスで彼は目を覚ました。瓦屋根の駅を出て、地下道を抜けた先に彼は海を見た。水平線の奥がぼんやりと光り始めている。日の光に水面は滑らかにきらめき、波の陰影は透明度のせいでその色を濃くした。彼は砂浜に降り、波打ち際に腰を下ろした。十月の海風が彼の体にぶっつかり、潮の臭いが鼻を抜けた。
波は満ち引きを繰り返した。それらは一瞬、黒曜石を割ったようなきらりと滑らかな断面で波打ち際に迫り、白い波頭を立てると、ざっぱん、どぼん、と音を立てて砂浜を撫でる。海風は身を切るように冷たく、彼が霧に消えた女の子について思いを巡らせたのはこの時が最後だった。波の鰭は泡の散る音とともに海に帰って行く。