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赤い放送局のリアル——働いてわかったこと

赤い放送局のリアル——働いてわかったこと

2000年代の北京。私は日本の地方局でアナウンサーをしていたが、縁あって中国国際放送(CRI)で働くことになった。

当時の中国は経済成長の真っ只中で、北京五輪を前に、街は日々変化し、人々の暮らしも活気に満ちていた。しかし、メディアの世界に足を踏み入れると、日本とはまるで異なる価値観とルールが支配していることに気づかされた。

「報道の自由」という言葉の意味が、ここではまったく別のものになる。

私の仕事風景

党が決める「放送方針」


日本の放送局では、番組の方向性やニュースの扱いは、編集会議や報道部長の判断で決まる。しかし、中国の国営メディアでは、それは共産党の意向に沿う形で決定される。

私が所属していた日本語放送部の方針は、毎週開かれる共産党員の会議で決められていた。

この会議は、局の方針を確認し、最新の政治的な方向性を共有する場だった。私たち一般の職員にも、その決定事項は後の全体会議で伝えられる。特に重要な国際ニュースについては、新華社通信(中国の国営通信社)の報道に完全に従うよう指示される。

たとえば、2005年、フランス・パリで若者たちが暴動を起こし、ストライキが発生した。この事件は欧州各国でも大きく報じられたが、中国の報道では扱いが慎重だった。

理由は明白だ。「天安門事件を想起させる可能性があるから」。

私たちも、このニュースを扱う際には、「社会不安を煽るような表現は避けること」「暴動そのものではなく、経済的な背景や政府の対応に焦点を当てること」など、細かい指示を受けた。

ニュースとは、事実を伝えるものだと日本では教わってきた。しかし、ここでは「伝えてよい事実」と「伝えてはならない事実」がはっきり分かれている。

それが「国営放送」というものなのだと、私は身をもって理解した。

「党員」は出世が早い


日本の放送局では、能力や経験が評価され、ディレクターやプロデューサーへとキャリアアップしていく。しかし、ここでは基本的に共産党員であることが早い出世の条件だった。

日本語放送部のトップは「主任」と呼ばれるポジションだった。その下に副主任などといった職位があるが、実際の権限は共産党の党籍の有無に大きく左右される。

私が指導していた新人アナウンサーの一人は、共産党員だった。入局当初は他の新人と同じ扱いだったが、数年後には副主任に昇進していた。彼の能力も確かだったが、それ以上に「党員であること」が重要な要素だったのだろう。

職場の人間関係の中でも、党員同士のネットワークは強い。食事会や勉強会といった非公式の場でも、自然と党員同士が集まり、情報共有をしていた。

「あなたも党に入れば?」と冗談交じりに言われたこともあった。私が外国人である以上、それはあり得ない話だったが。

「黙って従う」というルール


火曜日の全体会議は、私たちにとって重要な場だった。そこでは、局の報道方針が通達される。先ほど触れた共産党員の会議で決まったことを「伝達」する場だ。

たとえば、日中関係が悪化している時期には、「日本の政治家の発言をどう報じるか」「どのトーンで伝えるか」といった具体的な指示が出される。

ある日、「日中関係が緊張している」という表現を使おうとしたが「その言葉はやめよう」と指摘されたことがある。代わりに、「日中間で意見の違いがある」と言い換えるよう求められた。

また、地名や海域の名称についても、細かい規定があった。

たとえば、「東シナ海」という言葉は使えず、「東中国海」と言い換える必要があった。

日本の放送局でも、言葉の正当性には気を使うが、ここではより厳密な印象を受けた。特に、日本との関係が絡む言葉には敏感で、慎重に表現を選ばなければならなかった。

表現のニュアンス一つひとつが、政治的なメッセージとして受け取られる。そのため、報道する側も細心の注意を払わなければならない。

もし疑問を感じたとしても、「黙って従う」ことが求められる。

それでも伝えたかったこと


このような厳しいルールの中で働きながらも、私は伝えられる範囲で、日本の文化や生活の魅力を届けようとしていた。

政治的な内容には制限があるが、観光地の紹介や、流行している食べ物やファッションの話題、そしてスポーツなど、ソフトなニュースは比較的自由に扱えた。

「報道とは何か?」——この問いに、中国で働くことで改めて向き合うことになった。

振り返って思うこと


CRIでの経験は、日本のメディア環境とは大きく異なるものだった。しかし、それは決して単なる「不自由な報道」ではなかった。

そこには、共産党の厳格な統制がある一方で、「限られた中で最大限に工夫する」という文化があった。

たとえば、政治に触れられないなら、文化や歴史を通じて伝える。制約の中でも、人々は伝え方を模索しながら仕事をしていた。

日本で報道の自由を当たり前のように考えていた私は、ここで初めて「自由ではない報道のリアル」を体感した。

それは、決して単純に批判できるものではなく、ある種のしたたかさと現実への適応が求められる世界だった。

そして、今でも思う。

「伝えられないこと」の中にこそ、本当に伝えるべきものが隠されているのではないか——と。

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