血液型による性格分類から考える言葉の魔力と理想のコミュニケーション
はじめに
先日同僚から、「血液型で性格分類するやつはどれだけ信頼出来るの?」と訊かれた。当然科学的な根拠など無いものであるから当てにならない訳だが全く当たってないということもない、むしろ部分的にはかなり当たっていたりもする。
同僚に「あまり当てにならないですよ」なんて答えながら部分的に当たっている事の意味を考えていたら言葉の魔力に思い至った。
当たっているのか、当たりに引き寄せられているのか
血液型による性格分類が当たっているメカニズムとして一番大きな可能性は多くの人に当てはまる特徴や曖昧な事を言っているからというのが考えられる。
だが、それだけだろうか。
この日本において血液型による性格分類はかなりメジャーである。小さい頃から多くの人が知っているもの。誰しも何気ない会話の中で「〇〇は○型だからね〜」や「〇〇は○型っぽい」などと言われた事があるんじゃないだろうか。
僕らは学校で教えられたわけでもないのに、いつからか分からないが血液型別の性格傾向をなんとなく知っている。自分の血液型については結構しっかり知っていたりする。
つまり僕らは色んな場面で血液型別の性格傾向を刷り込まれてきたと言える。
これが僕らの人格形成に影響を与えている可能性はないだろうか。
血液型別の性格傾向という「当たり」に引き寄せられているのではないだろうか。ここに言葉の魔力が見える。
血液型についての話題なんて本当に何気ないもので、ただの雑談でしかない。
ただ「○型だからこんな性格だ。だからこんな人間や作業が向いてる。逆にこれらは向いていない」などと言われれば気になってしまう。
しかもそんな偏見に自己形成が全然されていない幼少期から触れれば、微々たるものかもしれないが自己形成に関わる行動選択やそれらを噛み砕いていくベースとなる性格に影響を及ぼすであろう事は想像に難くない。その結果として血液型による分類に沿った形の性格になっているのかもしれない。
血液型に拘らず、言葉の魔力で人の広がり・可能性に制限が掛かっている事は沢山あるのだろうなと考えてしまう。
言葉の魔力の強さに発信者の言葉の意図は関係ない
言葉の発信者と受け取り手が違う場合何気ない言葉であろうと、冗談や嘘であろうとその言葉が持つ魔力の強さには関係ない。
言葉が影響を及ぼす相手は受け取り手なのであって発信者ではないからだ。つまり言葉の魔力を決定するのは受け取り手の置かれた状況や性格、心理状態等なのであって発信者がどう思っているかなどは関係ないと考えた方が良い。それぞれは独立しているからだ。
そんな事を言われたら何も話せないではないかと言われるかもしれない。だが断じてそういう事ではない。
「相手の状態が全く分からない、そして相手も自分の事をそこまで把握していない。だから言葉が相手に与える影響も全く分からない」という事を「分かっている」のが大事なのだ。
そうすれば、自分の言葉の意味や意図をなるべく正確にとってもらおうと。自分が言葉によって与えたい影響を正確に与えられるようにと、努力する事が出来る。
その努力というのは普段の関係性作りや言葉選び、話し方の工夫等様々あるだろう。
そしてまた受け取り手も発信者の意図を汲もうと努める。
コミュニケーションは相互的な物であるからどちらか一方の努力によって成立する物ではない。
これらは決して相手の為を思って行動しなさいという事ではない。発信者は自分の意図を過不足なく伝えるという自分の目的の為に。受け取り手は誤解で不必要なトラブルやネガティブに自分が苛まれないように。
それぞれが自分の為に行動する結果として、相手の為にもなるという物なのだ。
さいごに
血液型による性格分類から始まり、言葉の魔力に考えを巡らせ、個人的な理想のコミュニケーションについても触れてみた。
言葉が持つ魔力は常に自分達が思っているよりずっと強く、そして繊細なものである。
だが、逆に。気を付けて言葉と向き合えばその強さを良い方向に発揮する事も出来る。
ちょっとの工夫で得られる効果は計り知れない。
みんなで豊かに生きていける世界になったらと夢見る。