中庸
YouTubeをよくみる私。
「知りたい」ときは、その知りたい何かについて、ポジティブな動画とネガティブな動画、両方みる。
そこに付くコメントもみる。
内容の傾向が、極端に分かれてることが多い。
もし片方しかみていなかったら、世の中の大多数はそっちの考えなのね、と思ってしまいそう。検索すると、オススメ、とかで似たような内容が並ぶので余計に。
世界のどこかで起きたことの、何が正しくて何が実際かなんてことは、偏りなくみようと心掛けたとしても、これがけっこうむずかしい。
事の起こりの当事者だったとして、立場や見方、背景によって、解釈が違ったりするのだから。
仕事上、ときに真逆の考えを持つ利用者と接することもある。Aさんは○が好きで、Bさんは○が嫌い、みたいな。そのどちらの気持ちにも、適当に寄り添う。寄り添う私が○についてどう思っているかは、どうでもよいことで。ただBさんの○嫌いが、Bさんの日常生活に支障をきたす類いのものならば、Bさんがなぜ○を嫌いなのかには興味を持つ。援助が仕事だから。
考え出すと、中庸、て、けっこうむずかしいもんだ。
出来事はひとつでも真実はひとつじゃない。と思う。真実にしたければ、実体験あるのみ。
実体験して真実を得たとして、それは万人にとってそうではないのだから、他者との関わりでは中庸をめざしたい。
感覚を共有できないことが、もどかしく思えたこともあった。他人と脳みそ交換してみたい、て。こどもの頃の空想願望。
ああ、ここ数日、母の感覚と想像されるものが送られてくるのは、そういうことなのかなあ。
中庸でいることも共有することも、ホンキでやろうと考えたらとてもオオゴトで胃が痛い。
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