誰の為の盆踊り
巣鴨で開催されていた「第37回巣鴨納涼盆踊り」にひとりで行った。
行った理由は盆踊りがしたいから。
盆踊りが大好きだから。
大好きになったきっかけは昨年、巣鴨納涼盆踊りに初めて参加した際に盆踊りの魅力に気づいてしまったこと。
まずなんてったって、上手く踊れてなくても許されるというのが大きい。
それが、ダンス下手クソ人間の僕からすると有難い。
というのも盆踊りに参加する人は、やぐらの上で踊る踊り手さん達をお手本にしながら、その場で見よう見まねで踊ることになる。そのため「今初めて踊りを見て踊っているんです!」という即興感が生まれ、それが下手クソな踊りに言い訳を与えてくれる。即興だから下手でもしょうがないという理由付けをくれるのである。
また、参加者の中には踊りが上手い人もいるが同時に、身体をまったく使いこなせていないお年寄りや、やらされてる感満載で踊る思春期の中学生や、そもそもお手本とは全く異なる創作ダンスを自分勝手に踊り出す地域のクレイジー野郎も参加しているので、僕の動きの粗さが目立たなくなるというのも盆踊りの美点だ。
そして何より、どんな踊りをしていても、それをお祭りの情景として温かく迎え入れますよという盆踊り会場の雰囲気、それが好ましい。
それを味わうと踊りたくなってくるから不思議だ。
高校で演劇部に所属していた際、舞台で行うダンスの練習をしていたら、そのダンスの振り付けを教えてくれていた女子に、
「真面目に踊って!」
と怒られ、しかし真剣に踊っていたので、
「真面目にやってるけど」
と返すと
「嘘つけ!気持ち悪すぎでしょ動き(笑)!」
とイジられてダンスが大嫌いになっていた自分が、
盆踊りにコンプレックスを無効化してもらえるだけで、こんなに踊りたくなるなんて。
言い換えれば高校時代の僕は演劇部の女子に馬鹿にされたくないが為に、無理してダンスを踊っていたのか。
馬鹿かよ。
誰の為に踊ってんだよ。
そんなもん虚しいだけだろ。
そりゃダンス嫌いになるわ。
身体を動かすのが楽しいとか、リズムに乗るのが気持ちいいとか、そんなことの為に踊っておけば良かったんだ。
周囲の視線をシャットアウトして、ひたすらぶきっちょな踊りが出来たらどれだけ楽しいことだろう?
この問いを演劇部の時の自分にぶつけてやりたい。
きっと当時の自分なら
「それが出来たら誰も苦労しねえわ!」
と言い返してきそうだが。
とにかく僕は今年も巣鴨の盆踊りに参加することにした。
午後7時。
夜の帳が下り始めた頃。
盆踊り会場に着いた僕は、まず盆踊りの輪の中に入る前に、出店のかき氷を買って食べることにした。
その出店はかき氷のシロップを客が自分で自由にかけられるシステムだった。
シロップの味は、いちご、めろん、ブルーハワイ、レモン、ラムネ、コーラ、抹茶、ピーチの8種類で豊富だった。
僕はその中から悩みながらも、いちごとブルーハワイとソーダとレモンをかけることにした。
好きな味を4つ選び、順番にかけていった。
すると、いちごとブルーハワイとソーダのシロップをかけ終わり、最後レモンのシロップをかけようとした段階で、近くで一緒にシロップをかけていた子どもが、店の大将に、
「あ、ちょっと、シロップ色んな種類かけすぎるのはやめてね~」
と注意されていた。
たしかにその子どものかき氷には、おそらくほぼ全種類のシロップが大量にかけられており、もはやどこがどの味か分からない状態になっていた。
子どもの手元には黒いかき氷が出来ていた。
だから一応、子どもに注意する大将の気持ちも分からないではないのだけど、内心では、
「子どもには好きなように好きなだけシロップかけさせてあげろよ野暮な大人だなオイ!」
とは思った。
「これ何味かもう分からねえ~!」
と言いながら食べるかき氷もそれはそれで美味いのにな。
僕は注意されてしょんぼりしていた子どもに対して、悪い大人のお手本を見せるかのように、レモンのシロップをいちご、ブルーハワイ、ラムネの上にドバドバかけて、汚いビジュアルのかき氷を作ってやった。
なんて言うか、かき氷だけではなく、「大人とはこうあるべき」とか「下品なのは良くない」みたいな価値観も汚せた気がした。大満足。
しかし、僕も大将に
「シロップかけすぎ!」
と注意されるかもと思うと途端に怖くなった。
だから急いでかき氷の屋台から逃走し離れた。
情けない大人だ。
その後、遠くにあったベンチに座ってかき氷を食べた。
何味か分からなかったけどそれがとても美味しかった。
舌が真っ黒になったけど。
かき氷を食べた後、いよいよ盆踊りに参加した。
やぐらを中心に、皆で輪を作って踊るのはやっぱり最高だった。
熱気の中で街の人と溶け合うのは楽しい。
普段は他人同士という顔をしている街の人が同志みたいになる。
太鼓の音とすりがねの音がよく響く。
1時間くらいだろうか。
僕はやぐらの上の踊り手さんのお手本を見ながら、お手本とは程遠い踊りをし続けた。
でも、そんな和を乱すような踊りをしても、誰にも何も言われないし、変な視線を向けられないから心地良かった。
やぐらを中心に輪をぐるぐるぐるぐる何周も回った。
夜の帳が下り切った。
盆踊りはあっという間に終了した。
盆踊りが終わり、会場にいた人は続々と帰路につき、提灯の明かりがぽつぽつと消えていった。
そんな中で僕はベンチに座り、名残惜しそうにやぐらを見つめてぼーっとしていた。
終わってしまったなぁ。
また来年かぁ。
そう思っている時だった。
突如として、先ほどまでやぐらの上でお手本として踊っていた踊り手さん達20名ほどが、僕の座っていたベンチの近くに集合し、円を作って、興奮冷めやらない様子で再び盆踊りを始めたのであった。
僕のような、他のいわゆる一般客と共に踊るのではなく、自分たちだけで嬉しそうに踊っているのであった。
そこを目撃した。
これは、僕の予想でしかないのだが、踊り手の方々はおそらく、お手本としての役目を果たした充実感に浸りながら踊っているように見えた。
きっと、盆踊りの本番に向けて練習してきた踊り子の皆さんで集まって、打ち上げをするかのようにのびのびと踊っていらっしゃったのだと思う。
その、達成感を共有するような踊り。
もちろん動きもしなやかに揃っている踊り。
その踊りが、何より美しいなと感じた。
なぜなら、お手本として踊っている時の「誰かの見本になる為の盆踊り」も素晴らしいが、そういう利他的な踊りではなく、自分たちが自分たちの気持ちよさを求めて踊る「自らの為の盆踊り」も素晴らしいなと実感したから。
技術の有無に関係無く、
踊りでも、あるいは別の表現でも、
「誰かの為に披露している」ものより、
「自分の為に披露している」ものの方が胸を打つ時がある。
マーケティングを通した作品より、創作者が自分の為に作った作品の方が深く刺さる時がある。
その作品に宿るカタルシス。
役目を終えた気持ちよさを味わいながら踊る。
外部の視線から逃れて踊る。
踊ることが好きで踊る。
踊りたくて踊る。
混じりっけ無しのピュアな踊りを、偶然にも目撃することが出来た帰り際。
僕はこの踊りが永遠に続けば良いなと感じて歓声を上げたくなった。