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モネ 睡蓮のとき@国立西洋美術館
上野のモネ展に行ってきた。
といっても12月のはじめのことだから、もう一か月は経っている。
いろいろバタバタして記事にできなかったのだけれど、却って時間を置いた方が大事なところだけ書けそうな気もする。
■今回の展示はモネ晩年の睡蓮がテーマだ。
モネのやわらかく繊細な色彩が好きなのだけれども、睡蓮の良さはよくわからなくて、特に最晩年の作品は視覚が衰えたモネの悲愴さを感じるだけで、そのものから受けるものは全くなかった。
それを覆されたのが今回の展示だ。
■モネの睡蓮作品の見方、捉え方というものが、恐らくある。
水面そのもの(睡蓮の描写)と水面に反映されている世界の広がり(空、雲、柳など)を同時に感じとる、その感覚の交錯から生まれる新しい感覚、新しい世界の見え方、言葉にしようとすれば、こういう感じか。
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■今まで何度も睡蓮を見てきて、少しだけぼんやり分かりかけてきたかな、というところだったのだけれど、今回の展示では、水面における意識の向け方と焦点の結び方についてのモネの探求を辿るような構成になっていて、ようやく見えたかな、という気にさせてくれた。
まだ、奥はさらに深いのかもしれないけれど、とりあえず納得はいくようにはなったと思う。
■そこで晩年のモネの作品である。
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■かろうじて分かる睡蓮の葉と藤色の荒い線
ここに広がりを見ることが今までできなかった。
けれど、目を細めてみるといい、と聞いたことがあって、それならばと数歩身を引いて極端な近視のメガネを外してみた。
するとどうだろう。
モネが見ていた世界はこうだったのか、
という感動に一気に包まれた。
そこには、いつものモネの描く景色が広がっていたのだ。
■決してモネは見えない屈辱にまみれてキャンバスに向かっていたのではない。
恐ろしく豊かな色彩とその結像を心に映し、それを白内障で侵された眼球の機能のままに描いていたのではないか。
「この絵はよくわからない」と僕らが目を凝らせば凝らすほど見えなかったものは、モネの極端に制限された視力と同じ立ち位置に引くことで浮かび上がる。
モネは最期まで光と色彩の祝福に包まれていたのだ。
そう思うのは、あくまでも観る者が勝手に作り上げた物語かもしれないけれども、少なくとも晩年のモネが豊かな色彩による幸福感を生むのであれば、それも良いのではないだろうか。
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■ジヴェルニーのモネの池にかかる太鼓橋。
大きく数歩引き、メガネを外せば水面と緑と橋の輪郭が美しく浮かんでくる。
そんな悦に浸りながらしばらく眺めていた。
きっと、ニヤけた顔の変なおじさんだったことだろう。
時期は寒さが強くなる12月上旬。銀杏の紅葉が青空に映える気分のいいひでありました。
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<2025.1.20 記>