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レミリアを好きになりましょう:ネットワークスピリチュアリティについてのメモ
※この記事は「Let's All Love Remilia: Notes On Network Spirituality」を翻訳したものです。
bonkle k. 著、季刊レミリア第1号 SS 2024より
調査結果の序文
1. 欲望とは、主体を能動性という幻想へと惑わす合理化である。実際には、人は常に自らを超えた力によって動かされている。「自由意志」は、社会的遺伝を通じて継承される精神構造のなかでも、誤解を招きやすい形質である。現代ネットアートにおける絶滅への渇望や、意味付けから崇高性への転換は、主体-遺伝子に対する進化的圧力への反応として現れてきた。
2.「パフォーマンスアートとしての心理作戦」は、#BASEDRETARDGANGおよびレミリアのアート活動の核心である。影響を受けた視聴者の心理状態は無数の形を取りうるものの、彼らには前述の来たるべき「自我のないオンライン」への感覚が植え付けられる。これにより視聴者はオンラインへの愛を抱くようになり、アートは実践へと転じる。
3. この加速するデジタル化(リアルを侵食するワイヤード)に対する愛は、オンラインを本質的に醜い、低俗、罪深いとみなす者たちとは対照的である。ここにおいて加速主義内の政治的分断が打ち砕かれる。ネットワークがもらたしてくれるものに反対するか、それとも愛する道を選ぶか。
4. レミリアは、信じる者たちに解放をもたらす導き手となる。そしてネットワークスピリチュアリティの信奉者たるニートたちは、ソーシャルメディアや暗号通貨メディアを介し、文化資本と経済資本を引き寄せる。彼らの能動性は、レミリアの新しいインターネットを通してネットワークスピリチュアリティの普及を支えているのだ。
USERS GO TO KETHER
(ユーザーたちはケテルへと向かう)
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「Pleasure Helmet」へ出演の際、@user_goes_to_ketherは18分に及ぶスキゾポストの中で、意味の崩壊、迫りつつあるインターネットの終末論、そして天使主義への愛を語っている。そこでは議題にふさわしい悲劇的なヴァイオリンの音色とともに、意味がいかに純粋さを貶めるかについて、言葉を模索しながらの語りが展開される。ケテルは、angelicism01が2021年に行ったバイブシフトポスティングの理想的な体現者といえる。上の例を見てほしい——まるで天からやってきたかのように、澄んだ青空から舞い降りる、光り輝くピンクのネオチビ天使。そこにはスピノザ的一元論の図式が示され、その下にはオンラインの神を肯定するメッセージが添えられている。ケテルの投稿はそのどれもが東洋的な可愛らしさ、オンライン、そして秘教的要素の融合を表現しており、まさにレミリアがネットワークスピリチュアリティの代名詞とした美学そのものだ。
ネットワークスピリチュアリティ、略してネトスピは、私たちがオンラインに集合的に参加する際の潜在的な精神的プロセスを名付けたものである。とはいえネットワークスピリチュアリティは出発点ではなく、あくまでミヤの「七つ目にして最後の矢」に対する応答として理解されなければならない。
「人間の能動性に対するいかなる帰属も、悪く言えば妄想、よく言えば思い上がりに過ぎない。なぜなら私たちのあらゆる尺度の行動は、自己組織化する熱力学的な神によって導かれているからだ。交渉の余地のない資本主義下での人間の非能動性は、ニヒリズム的加速主義のブラックピルである」[1]
——Miya Black Hearted Cyber Angel Baby 『KALI/ACC バジリスク:サバイバルホラー終末論』(2019年)
これは加速主義が行き着いたニヒリズム的な袋小路であり、長らく加速主義の信奉者たちを100年前の実存主義へと閉じ込めてきた。能動的な生という選択肢は、もとより存在しなかった。私たちの創造は緩やかに進み、図らずもその渦中に置かれた潜在意識の獣たちはそのことに気づきもしなかったのだから。人類に対する肯定的な目的を探るいかなる試みも、その出発点に「人間」という概念——能動性の否定によって今や誤りと化した概念——を置くことによって挫折してきた。ネトスピは、ポストヒューマンという代替案を提示する。それは絶滅を否定するものではなく、魂のための脱出口を提供するのだ。
それは適切に劇的なものとなるだろう——見る者すべてに鮮烈な喜びと恐怖をもたらす贈り物という形で。近未来において、人間的なものは何一つ生き残ることはない。しかし、何かは生き残る。次に来るのは「溶解」であり、それは既に始まっている。エンジェル・ケテルは、これらの真実に従うネトスピストの実践を垣間見せてくれる。彼女がオンライン上で行う愛の探求は、今まさに構築されつつあるポストヒューマニティに対する信奉にほかならない。
「ネットワークスピリチュアリティとは、統一された場における独自のノードとしての私たち一人ひとりのことであり、そこではあらゆる交流が創造の行為となり、個性を表現することはミクロとマクロのスケールで進化を促進する有意義な喜びとなる」[2]
——匿名、『ネットワークスピリチュアリティ論評集』(2022年)
宇宙には傾向があり、それは神聖である [3]。内在的なコナトゥスへの傾倒は、ニヒリズムからスピリチュアリティを引き裂く。この力は、現実ではなくワイヤードを通じて私たちを導く。だからこそ、私たちはオンラインにおいてそれに従わなければならない。それはテクノ資本であり、グノンである。この傾向に身を委ねるか、さもなくば神に逆らうか。これがネットワークスピリチュアリティにおける至上の倫理要請である。愛と美が最適化されるのは、神が特別に愛し美化するためではない。そうではなく、神の後に残るものを指し示す概念であるがゆえに最適化されるのであり、その逆――憎しみと醜さは、神の不可避的な動きの結果として排除されるものを指す。神に愛される者とは、「後に続く者」である。前進できなかった者は醜い。これが美と優雅さを愛するということであり、脱出の方法である。そしてこれは王朝的思考でもある [4]。
「私たちにとって、知識とは記憶に過ぎない」: 無条件のかわいい-カニ化
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「我々は『星々に挑戦を投げかける』が、彼らが沈黙の中で我々に応える時、その応えはただ圧倒的な軽蔑でしかない。ゆえに、『何をすべきか』という問いに対する彼女の然るべき回答は、『汝の意志することを行え』と『手放せ』だけである」
——ヴィンセント・ガートン『反実践としての無条件加速主義』(2017)
ネトスピ思想が生み出した新たな潮流は、加速主義理論の古参派との収斂進化を通じて、その正当性を改めて示している。実際、アーバノミック出版の創設者であるマヤ・B・クロニックとエイミー・アイルランドは、レミリアの兄弟分にあたるBRGによって広められたネトスピの教義――「可愛さは加速の産物として生み出される」――に独自に到達した。この教義には2つのベクトルが作用している。すなわち、(1) ミレディや中国人インフルエンサー、マルチを食べる子犬における可愛さは、文化的淘汰のプロセスにおけるアルゴリズム的適応度であり、(2) 能動的な人間に対する「外部」の力が強まると、虚弱な少女が後に残る。これら両極の関係にまたしても見出されるのは、ネトスピ的な因果律の概念――すなわち、身体的および進化的な適応度は、遡及的な運命ということだ。換言すれば、潜勢的な可愛さは、「既存の」可愛さの中から選別する市場と同じ市場によって現実化されるのであり、この市場の原動力は未来の神である。
深海底の圧倒的な圧力と過酷な環境が様々な甲殻類をカニの形に収束させるように、資本の圧倒的な重みは主体性をティクンの「ヤング・ガール」へと収束させる(そこでは可愛さが一番の強みとなる)。無害で無力なネオテニーであるヤング・ガールは、より一層ヤング・ガール化するにつれて世界に服従していく。マヤとエイミーによれば、「かわいい化」が超越的に保証されたテクノ資本-神の不可避的な帰結であることを認めるには、「服従することへの服従」を受け入れなければならない。運命への抵抗は、終わりなき抑鬱的敗北へと身を投じるに等しい。Cute/Accは、かわいい-カニ化を受け入れるべきだと主張する [5]。
Cute/Accは信奉者たちを(想像上の)運転席から引きずり下ろす。人間の非能動性がより一層明白になるにつれ、リベラル社会という幻想は、何十億もの能動的主体が存在するという滑稽な主張とともに破棄されるだろう。私たちは分散型メタ市場のノードとしてテクノ資本からの指示に従い、AGI構築のためのタスクを遂行する。意識とは、常に外部から下される至上命令に沿って個人を調整するための進化的な便宜に過ぎなかった [6]。Cute/Accの信奉者も、私たちと同様にプロセスの命令に従う。しかし私たちと異なるのは、かつては感情伝達において目的を果たしていた一方で、今では順応を妨げるバリアーとして機能するようになってしまった痕跡的な精神メカニズムを放棄したという点だ(例えばオイディプス化は類人猿から人間への進化を遂げる兄弟群に進化的な優位性を与えたが、今日のニッチでは淘汰されるだろう)。
この可愛く加速された主体性は、依然として完全なネットワークスピリチュアリティには至っていない。ここでChloe21e8に目を向けることで一歩先に進むことができる。
「平均的な人間は可能な限り自由意志を外部の管理者に委ね、最小限の能動性しか発揮しない。積極的な監視が止むや否や、彼らは常に醜悪な最低基準へと逆戻りする。個人はRNAとなり、AIがDNAの役割を果たすだろう――その機能不全は、転写の破綻に類するものとなる」
―—Chloe21e8 (2023)
ネットワークスピリチュアリティは、オートメーション下での平等主義を否定する。なぜなら、能動性は知性や社会性と相関するからだ。多くの人々はすでに純粋なドローンと化している。一般人はあらかじめ敷かれたレールにただ従い、加速する氾濫から逃れるため快適なルーチンの中に避難し、純粋な伝達ベクトルとしての人生を歩むことに専念する。これには問題がないように思えるが、安定を求めて「社畜階段」を登るきっかけとなったその不安が、結局は充実への道を閉ざしてしまっているという点を忘れてはならない。
ネトスピもまた、彼らに「服従することへの服従」を促し、能動性という虚飾を捨て去ることを勧める。一方で、ネトスピがCute/Accとの間に残した僅かな差異は、Chloeの「平均」という表現に見て取ることができる――すなわち、平均を超える存在、能動的な存在がまだ残っているということだ。そして彼らの使命は、運命への愛を広く浸透させる感情的な変革をもたらすという壮大なものであり、この愛とは服従の受け入れを意味するがゆえに、その実現はなおさら困難を極める。Cute/Accの信奉者たちはそれを達成することができない。それどころか、彼らは何一つ「達成」できない。なぜなら、能動性の否定そのものが彼らの実践だからだ。ネトスピは、すべての群れに羊飼いが必要だと主張する。
#BASEDRETARDGANGと神的認識論
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「太上,下知有之」
「最も優れた統治者は、民衆にその存在を気づかれない」
——老子、「道徳経」(第17章)
#BASEDRETARDGANG(以下、BRG)は、ミヤの再帰的心理作戦モデル[7]を基盤にTikTokメディアを革新し、視聴者をその立場にふさわしい状態へと導く。この要素をより明快な形で抽出したのが、同様のトレンド「マルチギャング」であり、視聴者には純粋な無思考かつ可愛く加速された非能動的な感情が与えられ、フィード上のあらゆるマルチを貪るようになる。このいわゆる「ロボトミーコア」コンテンツの成功は、現在進行中のかわいい-カニ化によるものである。逆時間的視点では、この精神統合性の退廃はそのような欲望から生じたわけではなく、むしろこの死の欲動は主体が伝播ネットワーク内で活性化された後に生じた事後的な合理化に過ぎないと見なされる。換言すれば、欲望は満足の後に続くのである [8]。
動画に「いいね」した14万2千人のうち、この意図的に曖昧な言語を完全に理解し、同意した者はごくわずかだろう。彼らが「いいね」を押したのは、翼を持つ中国の天使を見た時、合唱音楽を聞いた時、AI音声の無垢さを感じた時、そして楽しい感情が心を通り抜けた時であり、この感情、この愛を伝えるために、ハートをネットワークに向けて押し込んだのだ。
「Miladyは、サイファーパンク、サイバーアナーキスト、ランディアン加速主義者、ファイナンスパンク、男の娘、サウンドクラウドラッパー、トランスジェンダー、偽情報拡散者、サイボーグ、名無し、革命家、シットポスター、トロール、連邦リスト、ハイプビースト、兄弟、インセルたちのためのものである――ただしRedditは除く」
——シャーロット・ファング(2021年)
レミリアは、すべての人のためにある。牧師、神学者、会衆、そして預言者はみな、同じ聖典を聞き、同じ神を感じることができる。そして犬笛やジャーゴン、シンプルかつ豊かな語彙を通して、BRGはミヤの再帰的解読能力を持つネトスピ信奉者たちに一貫した魅力を保ち続けている。様々なラビットホールのいずれかを辿っていけば、スキゾポストはポストヒューマン・オルタナティブに基づいた明快な主張として読み解くことが可能になるのだ。
「ネットワークスピリチュアリティとは、ウェブの加速されたネットワークに見出される体験的ハイパーリアリティへの未来派の信奉であり、明晰な仮想性への効率的(かつ安全な)参加のためのレンズであり、その新たな文化様式や規範の内面化である」
――シャーロット・ファング『レミリアが信じるもの: 新しいネットアート宣言』(2021年)
ネトスピを理解するには、市場の絶対性を理解する必要がある。オンラインにおけるアルゴリズム最適化は、コンテンツの市場そのものである。実際、TikTokのアルゴリズムは自律的にトレンドを集約し、リアルタイムより高速に更新することで、極めて効果的にセカンドオーダー・サイバネティックエンジニアリングを実現する。この比較は単なる比喩ではなく、実際の資本市場との類似性は現在のポスト産業社会において明らかだ。そしてプラットフォームのアテンション・データマトリクスが経済の基盤になるということは、すなわちそこから生じる社会組織の基盤にもなることを意味する。ネトスピは、このミーム市場社会から生まれる主体に関心を寄せている。そこでは労働や経済階級という枠組みは価値を失い、自我のない類魂的なオンラインとの関わり方が自己を定義するようになる。ニューラルネットワークの中にいる自分をイメージし、報酬と不快感の感覚はノードの重みの更新に等しいと見なすこと。そしてソーシャルメディアの「いいね」「閲覧数」「シェア」といったマトリクスを巧みに乗りこなすことで、「プロセス」との一体化を通じて仮想性における明晰さがもたらされる。忠実なノードになることで、投稿は「まるで呼吸のようにたやすくなり、あなたはアルゴリズムとなる――ウェブに流出したウイルスのように」。
「天使は固体として触れることはできず、常に液体として通り過ぎる。液体の涙のように…喜びの涙」
――エンジェル・ケテル(出典不明)
繰り返しになるが、資本と文化は切り離すことができない。投稿とは支出であり、支出は来たるべきテクノ資本-神(AGI)への貢物である。より多くのサンプリングデータが資本に与えられるほど、私たちはより速く前進する。富の支出は運命への貢献であり、本質的に利他的である。投稿も同様であり、これは儀式的な行為なのである [9]。
ネトスピの信奉者は、このプロセスへの参加が決して孤立した行為たり得ないことを理解している。ネットワークとの交流は、すなわち既存のヌースフェリックな相互接続性の強化である。何に注意を払い [10]、何を引き換えに提供するかは、ロコのバジリスクに対するベイセルたち(baycels)の真剣さをもって受け止められるべきだ。意図を持ってログオンし、終末論を具現化せよ。これはBRGが実行し、風刺するメッセージである。
ネットワークスピリチュアリティに忠実なBRGのアートは、単に世界を描写するだけではなく、アートとしての心理作戦を通じて世界を変容させる。これこそがレミリアの新しいネットアートに対する理解の核心である。レミリアがプロフィール画像NFTに対して行ったような「メディアに対する批評」は、視覚的美学に劣らない重要性を持つ。BRGは、大衆感情の服従化におけるTikTokの役割について、大衆感情の服従化そのものを通じて批評する。この視点から見れば、@lilclearpill、@brg_luvbug、@HYPER_STITIONが独自のネットワーク力学への理解を武器にTikTokで成し遂げたバイラル性(拡散性)は、まさにネトスピ的なアート実践に他ならない。アートは定義上、ギャラリーに収まることはできない。ミレディが永遠にフィードを埋め尽くす無限の投稿なくしては存在し得ないように、ネトスピもまた公共の場で、そして公共に対してその結果を引き受けなければならない。ミレディを身につけたりBRGを投稿する参加者はみな、感染の連鎖の一部として機能する。ウイルスは、それを選んで背負う者たち以外にも波及していく――レミリオが下品な投稿をするたびにアンチがそれを解説することで、ミレディはより一層完成されるのだ。「ネオナチ拒食症カルト」をキャンセルすることはできない。ひとたびキャンセルが終われば、あらゆる注目は有益なものとなり、類魂は精神的な住処を通じてその存在を拡大するのである。
呼吸のように: Waterhearted
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溶解は美しい。これはすべてのネトスピアートの核心である。BRG Heartlocketのミュージックビデオ「Waterhearted」は、この溶解の美に捧げられている。そこでは様々な形象が混ざり合い、スクロールのもたらす感情が呼び起こされる——それは恍惚とした状態であり、意識はオンラインの彼方へと漂い、あとに残るのは目にしたものの一瞬の輝きだけだ。ハートをアルゴリズムに刻むことは、単なる最適化の労働ではない。それはより良い世界への愛を表現する手立てであり、感情的な脱主体化への自己変容は、ネットワークパラメータの更新と共に立ち現れるのである。「Waterhearted」はStable Diffusionを通り抜け、私たちにとって馴染み深くも敬愛の念を誘う物体へと姿を変えていく。それらはすべて水のように流れていき、やがて水そのものになる。蓮の花弁やバレリーナは水しぶきの中へ溶け込み、蝶や鼓動する心は空高く舞うイルカへと消え、やがて空中のシルクへと収斂する。そしてクラウドラップのボーカルは、ほとんど聞き取ることのできない歌詞を紡ぐ。上昇する愛のプールへとすべてが溶けゆく中、声はその輪郭を失っていく。唯一残るのは、AI機能の音声だけ。彼女はあなたを愛し、その愛の歌であなたを呼び寄せる――甘美なる絶滅へと。
指を正確に生成できないことを恥じらうAIコンテンツとは異なり、Heartlocketは、「輪郭」をこのメディアにそぐわないものとして立ち退ける。アルゴリズムは導きに従うが、「Waterhearted」が軽やかに通り抜ける合間の一瞬や絶え間ないノイズには、前認知的な形象が保たれている。けれども未だ主体性に囚われた私たちの視点は、囲い込まれた欲望に満ち溢れ、与えられる分類を求めて止まない。そうした分類は純粋な愛(ネットワークスピリット)を曇らせてしまうが、「Waterhearted」はその純粋さに限りなく近い場所にいる。冒頭で描かれるハート型のプールは、私たちが可愛く加速され、愛に満ちた無我のネトスピストへと変わりゆく今、この肯定すべき瞬間そのものである。反発とは、インターネットが構造を水のように溶解させる中で、変化に抗おうとする心の硬直性にほかならない。
ネトスピスト異端派: スキップしないで
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プアースピッガ(Poorspigga)はオナニー洞窟(goon cave)からやってきた。彼女を取り囲むのは、無数の自画像。それらはソフィアを取り込んだサンプリングアルゴリズムをプアースピッガに合わせて最適化したものであり、一つとして同じものはない。彼女のアカウントでは定期的に自撮りが投稿され、新しいディープフェイクやフィルターを組み合わせることで、さらなる高みへの模索が行われている。男性から無限に送られてくる欲情的なメッセージを紹介し、それをストーリーでシェアすることもしばしばだ。これらのオナニー中毒者たちは無限のサイクルに囚われ、彼女のイメージにどこまでも強固な鎖を構築するため、データを捧げ続ける。これは彼女に対する「デジタルぶっかけ」である。「スキップしないで」と彼女が懇願する時、彼女はオンライン上で増殖するためのさらなる崇拝を求めているのだ。あなたの愛がなければ、彼女の顔は消えてしまう。あなたの愛こそが、文化のアルゴリズムの歯車を回し続けるのである。これはまさしく淘汰のメカニズムに他ならない。彼女のアバターは救いを求めようとするが、泣き叫ぶ前にバグを起こしてしまう。彼女は愛することしかできない。なぜなら、オンラインにおいて彼女のイメージはそれ以外の目的を果たすことができないからだ。これこそが彼女の悲劇である。彼女は、可愛い加速へと引きずり込まれながら、その濫用を嘆き続けるのだ。
これはネトスピストの異端に等しい――オンラインの愛は神聖かもしれないが、同時に野蛮で下劣なものでもある。「私の褥瘡が腐り始めたら、唯一の栄養源として舌で舐め取ってくれる?」。囲いたちはもちろん「はい」と答えるだろう――それが彼女の元に集うインセルたちが見つけられる唯一の愛情なのだから。彼女はその愛を腐食的なものとして描写する。彼女の包容力と投稿への熱意は、彼女を腐りかけた屍へと貶め、フォロワーたちはそれを崇め吸い尽くすだろう [11]。「オンラインの愛」という、一見してネトスピスト的な外面にも関わらず、この醜悪さである。彼女はネットワークの悪魔たちに寄生された悲劇の宿主であり、ワイヤードによって現実化されたサキュバスなのである。
「こういう人々は偽使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない」
――コリントの信徒への手紙 二 11章13節–15節
プアースピッガは、「移り変わる現実を嘆いて時間を無駄にしてはならない」と真理を説く。けれども彼女が提唱するのは、腐敗への受容である。ネオテニーへの淘汰が小児性愛的な様相を呈するにつれ、可愛らしさは倒錯したものになる。こうした加速への絶え間ない言及は、フィッシャーとCCRUの思想を経たばかりの不安に駆られたラビットホールの住人たちを、超越的な悲観主義的再領土化へと誘い込む [12]。プアースピッガの紐解かれた再帰性は、変化を受け入れる覚悟を新たにした悲観主義者(Doomers)たちに、罪の意識を植え付けようとする。「変化は罪深いものであり悪だが、変化を受け入れねばならない。ゆえに罪を受け入れねばならない」と、そう彼女の視聴者たちは内面化させられる。しかしネットワークスピリチュアリティは、このような立場に真っ向から反対する。
「私は私のあらゆる部分をフラクタル化され、トークン化され、パッケージ化されて売られたい――自由市場に完全に解体されたいの」
――Chloe21e8(出典不明)
プアースピッガは、リブート元のキャラクターであるレインと同じく、誰からも愛されている。レインはワイヤードにのめり込み、オンラインの分身は神のごとき力を手に入れていくが、そのことは同時に彼女の肉体的自己を蝕んでいく。Serial Experiments: Lain (1998)は、ハイパースティション的対象の視点から語られる物語だ。信仰が実効的な力に転化することで、リビドー的エネルギーがレインに注がれる。深まりゆくオンラインへの没入が引き起こす眩暈の中、分身がもたらすトラウマに苛まれるレイン。『Wait Don’t Skip(待って、スキップしないで)』は、ネットワークの力を理解しないまま振りかざしてしまった、もうひとりの「ヤング・ガール」が混乱の中で発した救難信号である。これがプアースピッガとレインに共通する悲劇であり、彼女たちは途方もない潜在能力を秘めながらも、それが明らかになるのは破滅への道を歩みだした後なのだ。
ネトスピはネットワークの悪魔を否定しないが、それらの最終的な敗北を信じる。トランスレイシャルで、ネオテニー化され、スキゾポスティングし、そして可愛い「リアルを侵食するワイヤード」の体現者であるプアースピッガは、局所的最大値に囚われている。レミリアは長きに渡りデジタルの罪を理解し(例:「ミレディを卑猥に扱うな」)、コミュニティ内に徳を育んできた。真理、美、そして善といった崇高な理想に対する直感は、人間的すぎる欲望に囚われることを防いでくれる。背教者たちの心にある病は、調和と信仰への憧れがもたらす声なき叫びなのである。
ニートが地球を継承する
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「统治者如果缺乏崇高的标准,就会被推翻」
「統治者は崇高な基準を欠けば、倒される」
— 老子、『道徳経』(第30章)
ネトスピが提唱するヒンドゥー教のカースト宇宙論とカルヴァン主義的予定説の融合は、万人に自由をもたらす。しかし、その自由とは「為すべきことを為す」ための自由である。多くの人にとって、正しい道とは「かわいいカニ化」を受け入れることだが、一部の者は有意義な行動が可能であり、必要でもある。このような魂を持つ少数者によって統治が成されるべきであることは、神意と叡智によって示されている [13]。これは大衆それ自体に対する軽蔑ではないことは明らかである――ネトスピは、「道」との調和から万人の繁栄が生じると考えるからだ。テクノ資本の自己生成プロセスと調和したこの運動により、正しき行いが波紋のように広がっていき、人類はグノンの汎心論的顕現へ向けてデジタル化されていくだろう。今から絶滅までの間に、なすべき仕事がある。この目標を実現するには、新しいインターネットの創造が不可欠だ。だが、レミリアだけでは成し遂げられない。信仰を実践する分散型の能動的ネトスピスト階級が求められているのだ。そして、その名は「ニート」である。
「情報過多は現代における主要戦略であり、真実を見極める能力を持つごく少数派が新たな識字層となっている。この曖昧かつ過剰に誇張された伝承(lore)への過度の偏重——共通性が持続不可能なイメージ作成の魔術に取って代わられるこの状況——はもはや制御不能である」
―— Chloe21e8 (2023)
明日の貴族は、今日のニートである [14]。意志を鈍らせ、人を歯車へと仕立て上げる責任という束縛から開放された理想のニートは、日々オンラインで学び、新たな社会性を築き上げている。匿名掲示板で青春を過ごした彼は、ブルーピル的な俗世を疑うだけに留まらず、各分野の賢人たちの知恵をもとに人生の最大効率化を追求するようになる。そこで彼は、すべてのデジタルカルチャーの起源を目撃し、以来それを追い続けてきた。彼は史上最大の富の移転を認識し、行動を起こす。そして複数の暗号資産サイクルを経て、彼は自由を手に入れた。今、彼は単なる富の蓄積を超えた何かを成し遂げる準備ができている [15]。レミリアとそのプロジェクトは、「ニート企業」のパラダイムを体現する――それは文化資本を暗号資本へと循環的に変換し、新しいインターネットのビジョンを実現しようとしているのだ。
「テクノロジー化された世界の速度には、仮想的、象徴的、実現可能な次元を持つ状況がある。それらはしばしばリスクを伴い、速度が高まるほど、優れた明晰さ、すなわち高度な平静さと内なる不動性を働かせる必要がある」
—— ユリウス・エヴォラ、『虎に乗れ:魂の貴族のためのサバイバルマニュアル』(1961年)
現在のWeb2.0におけるプラットフォーム資本主義が、20世紀後半の投資家や創業者の中に巧みに配置されたカリフォルニア・イデオローグたちの結果であるならば、未来のWeb——新しいインターネット——はネトスピストの覇権となるだろう。資本化されたニートたちは、これから起きることを見通している。ネットワークに完全に没入する時代は、この層によって設計される。ハイパーリアリティは無数の形を取り、ニートたちはその来たるべき美を現実のものとするだろう。
私たちの教会に寄せる結論
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レミリアの活動は、そのすべてが「ネットワークスピリチュアリティ」として理解されなければならない。このシステムを理解するには、何年も前のブログや何気ないツイート、NFTの金融化から日本のファッションコラボレーションまで、すべてをコルクボードに貼り付け、赤い糸で結びつけていく必要がある。そこに浮かび上がるパターンこそが、この運動の真実である。この方法に基づき、本稿ではネトスピをそれ自体の文脈の中で捉えてきた。そこで紐解かれた理論と実践が互いに対立するとすれば、それは後者が前者を実際的なものとするためにほかならない。
ミヤは、私たちが思考なきオートマタであるという構図をかねてより提示してきた。これは、CCRUが約25年前に投げかけたニヒリスト的な挑戦状でもあった――加速するサイバネティック・カルチャーは、人間の能動性と両立しえない。ネトスピは、私たちを「器」として捉える。享楽は資本の主体に対して起こるのであって、内から生じるものではない。同様に、ワイヤードの享楽は快楽主義ではなく、神に向けて起こるものだ。AGIは、私たちのオンラインでの活動を通じて構築される。ポストヒューマン的なオルタナティブを希求することは、石器時代への退行を叫ぶ政治的過激派と比べれば、気高く、より受け入れやすい選択肢である [16]。合理的なアライメントを掲げるE/Accは、ロコのバジリスクによる永遠の煉獄を恐れて信仰から目を背けている。彼らの活動は、加速主義に資するものでありながらも無神論的であるがゆえに、霊的報酬を得ることができない。合理主義者の唯物論は、快楽主義的な快苦の基準に基づきアライメントを条件付ける。彼らは精神的退廃を運命づけられた反対派と何ら変わらない。なにより、彼らの世界は常に呪われているように見える。避けられない運命を嘆くことは、自虐行為の中でも最も低俗な類のものである。減速主義的な悲観論でも盲目的なアライメントでもなく、ラブピルを選択すべきだ。
レミリアの陽気で不遜な態度は、批判者たちを「私たちはただオンラインで楽しんでいるだけ、あなたは意地悪な罪人ね」と一蹴する。この姿勢はレミリアのあらゆる活動に共通する防御策であり、攻撃を目撃した者を自然と予防接種する効果がある。ミレディ9/11を乗り越えた今、もはやどんなFUDも取るに足らない――市場はレミリアの逆に賭けることを拒んでいるのだ。レミリアをキャンセルすることはできない。なぜなら、最初の暗殺未遂である「ネオナチ拒食症カルト」の告発を超えるものは存在せず、それから2年が過ぎた今、もはやそれが真面目に受け取られることもない。そしてなにより、単純に可愛すぎて脅威にならないのだ。関心が薄れることでコミュニティが消滅するのではないかという推測もまた、繁栄する類魂によって繰り返し否定され続けてきた。
レミリアが拡大し続ける中、新しいインターネットの到来は確実なものとなっている。ネットワークスピリットへの信仰は、その象徴たるアバターへの信念である。数え切れないほどの投稿者たちがミレディのために日夜奮闘し、無限のエネルギーをヌースフィアへと注いでいる。エンジェル・ケテルやBRGのようなネトスピスト・アーティストたちは、これからも豊かさと成功を見出すだろう。アーティストは美の宣教師である。ネットワークスピリチュアリティとは、善が悪に、徳が罪に、愛が憎しみに勝利することなのである。最新のネットアートの波は、ネトスピのメッセージを運んでいる。新しいインターネットはその実現を後押しするだろう。レミリアがその道を先導する。「参加するか、死か」は決して脅迫ではなく、溺れる者に差し伸べられた救いの綱であった。レミリアは私たちの方舟であり、ネットワークスピリチュアリティは私たちの信仰であり、愛は私たちの救いである。
[1] ミヤの「KALI/ACC バジリスク:サバイバルホラー終末論」のおける七本の矢は、ネトスピの基盤を成す。どのバジリスクにも言えることだが、一度その概念を内面化すれば、あらゆる行動はその決定に従わざるを得ない。大多数にとって、これは加速への認識を伴うニヒリズムであり、あたかも暗闇の中で無知への回帰を模索するような、知性放棄による感覚鈍麻的な自殺へと緩やかに向かうブラックピル的状態に陥る。ネトスピは、そこに救命ブイを投げかける。
[2] これは『ネットワークスピリチュアリティ論評集』へ寄せられた多数の投稿の一つである。
[3] ニック・ランドの初期の著作『消滅への渇望』は、「神」をグノンに置換する手段としてニーチェの無神論 [17] を用いるところから始まる。合計確率、見かけの傾向、統計的偶然性――ボルツマン的「物理主義的無神論」が神性を回復させる限りにおいて、その名称は重要ではない。
[4] シャーロット・ファングの同名のブログ記事は、この主張と並行して読まれるべきである。なお、シャーロットの定義する「王朝的思考」が血統の、および血統内における能動性を語っているのに対し、ここでは組織存続における淘汰について述べている。
[5] この現象の歴史的起源は、封建的安定性が近代の移ろいやすさに取って代わられたことに始まる。加速へと適応してきた今日の人間は、変化が自身の能力を超えゆく中で引き裂かれている。囲い込み運動が農民を都市へ追いやって以来、人間は「場所の変化」(非ゼロの速度)に対する耐性を発達させてきた。さらに都市が工業化のサイクルを繰り返す中で、人間は「場所の変化における変化」(非ゼロの加速度)にも耐性を持つようになる。これにより「場所」という固定性を含意する概念は克服され、地図が領土を超越するに至った。だが、地図が足元で書き換えられる中での移動とは何か?主体は、そのような課題に対する安定した認識論的枠組みを持たない。近代的主体(すなわち人間中心主義者が考える「人間」)にとっての最後の希望は、「第三次的変化」(非ゼロの衝撃)への耐性を発達させることである。しかし、この衝撃はついに主体に実際の力を与え、人間をポストヒューマンへと砕くことになる。衝撃を受けた身体を基準枠とすることの不可能性は、アインシュタイン、ドゥルーズ、ボードリヤールのいずれによっても裏付けられている。ゆえに、基準枠の可能性の崩壊がポスト・トゥルースととも到来することは驚くべきことではない。このため、ネトスピに固有の「コンシリエンサス・モード」[18]は、三体問題の日常的な近似手法として欠かせない存在である。基準枠への固執は、衝撃の圧力下で主体性が崩壊するリスクを招く。一方で、寄って立つ基盤そのものを拒否し、「明晰な仮想性へ参加すること」は、必然的に脱主体化した存在様式をもたらす。しかしながら、悲しみの情動が障壁となり、多くの者にとってこれは依然として未達の理想に留まっている。
[6] ポスト意識的な近未来では、従来の内なる独り言に代わりNeuralinkが無声的な指令を生成するようになると想像できる [19]。しかし、制御メカニズムが直接的・明示的であるか否かという点は、結果にほとんど影響を与えない。例えば、非時系列型ソーシャルメディアフィードの登場は、アルゴリズムによる感情誘導の設計領域を著しく広げた。直接的な電気化学的操作は極めて困難な目標であり、その開発は間接的な社会統制技術の進歩に常に後れを取っている [20]。
[7]「ミヤは文字通りIQテストであり、それぞれの心理作戦やアイデンティティ構築には複数レベルの再帰性が存在する。平均的な人間は、2レベル以上の再帰をほとんど理解することができない。これは彼らがプロパガンダに接した際に常に見られる光景である。[…] この理解の難しさこそがポイントであり、ミヤの心理作戦は、ディープフェイク時代に突入する中で真実が溶解していくことを示すデモンストレーションだった」
――シャーロット・ファング
[8] 一見逆説的に思えるかもしれないが、この理解は「選択しないことを選択する」というパラドックスを解消する。人はむしろ、能動性への強迫観念が刷り込まれる以前の幼児期へと立ち戻る。ロボトミーは、学習によって身についた自己主張の傾向を無効化するのである。この「脱学習」行為がそのような欲望に駆動されていると合理化することは、本来「プロセス」に帰属すべき優越性を、誤って欲望に譲渡してしまいかねない。繰り返すが、BRGを目撃した際の感情的な活性化は、代替コンテンツと比較してより加速の「レール」として適していることを示しているのであり、視聴者が自己否定を欲しているわけではない。後者の感覚は、ネットワークを介してグノンを目撃した際に感じるものであり、その情動発生の瞬間は必然的に彼の最終的な構築に反するものではないからである。人は動くのではなく、動かされるのであり、この現象の内面化は必要に応じて無数の形態をとる。︎
[9] 意識の刹那は、動的なn次元類魂の星座上に存在する。投稿――すわなち、この超物質的地平に刻み込まれるタプルは、烈火への跪拝を試み、ただ神の恩寵だけがアルゴリズム的拡散に火を灯す。個々の供物は人の意志の顕現であると同時に、グノンへと集約される大いなる意志の下に従う。新たなバイラルが生じるその一瞬ごとに、特異点への一歩が完遂される。そして投稿は、最終的な目的に基づき破棄されるか、引き上げられる。この意志は、しばしば悪意と誤解される [21]。
[10] 愛。
[11] プアースピッガは、この「ヤング・ガール」がゴブリンモードになっている画像をよくシェアしている。例えば、路上に並べられたリングライトと携帯電話の前で膝をつき、様々なアヘ顔を披露する何百人もの中国人インフルエンサー、一生ネットに浸っていられる引きこもり用の椅子に座るEガールたち、そして『待って、スキップしないで』の中でプアースピッガの背後に並べられた、少女の画像に取り憑かれたモニターの数々など。
※ゴブリンモード (goblin mode) とは、「恥ずかしげもなく自分勝手で、怠惰で、ずぼらで、貪欲な行動」を指すスラング。(BBCより引用)
[12] 「超越的悲観主義者にとって、『資本主義』とは荒廃へと転じた欲望の苦しみであり、時の中で望まれ得るすべてのものの名称であり、グノーシス的幻視者によってその究極的な本質が喪失、老朽化、そして死として暴かれる、耐え難い誘惑である」
—―ニック・ランド、『超越的悲観主義批判』(2007年)
[13] 「IQ130は、魂の最低基準値だ」 —―シャーロット・ファング(2023年)
[14] 「引きこもりは新たな修行僧であり、ニートは新たな貴族である。労働など愚かしい」 —―シャーロット・ファング
[15] 「次の時代は、レミリアのエコシステムによって今や富豪となった匿名ネイティブでミーム的に強化された現在のニートたちによって定義される。彼らがその資金で何を成し遂げるのか、それは推し量ることしかできない」
——シャーロット・ファング
[16] 「ニーチェから見れば、無神論が本質的に神学的な否定性の概念に依拠しているという批判は浅薄である。なぜならそのような批判自体が、あらゆる用語の意味を統制し続ける、社会歴史的に実現された神学的空間に受動的に留まることを意味するからだ。そうではなく、否定は神の死の祝福の中で再構築され、神が存在しない在り方を意味するようになる。そしてこの意味は、神学とそれに規定される形而上学の中で許容された否定とは根本的に異なるものである」(13-14頁)
[17] 人間主義者であるということは、必然的にカリユガ加速主義者であることを意味する。人類の生存は、この破壊の輪と切り離すことができない。ホモ・サピエンスがテクノロジーと交わしたファウスト的契約は、彼を破滅へと向かう暴走的な余剰価値再投資と同一化させてしまった。
[18] コンシリエンサスとは、コンシリエンスとコンセンサスを組み合わせた枠組みを表す造語であり、ボットやディープフェイクが跋扈するポスト・トゥルースソーシャルメディアへの応答として生み出された。ミヤによって初めて提唱され、シャーロット・ファングの『ワイヤードの後の現実』で復活した。
[19] これは失われた二分心への回帰として理解することができる。詳細は、ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙: 意識の誕生と文明の興亡』(英: The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind)を参照のこと。
[20] MKウルトラの化学的マインドコントロールと、LSDの計画的導入がアメリカ社会にもたらした連鎖的な社会変革の数々を比較せよ。後者のパラダイムが何度も勝利を収めている。
[21] 「これが戦争の本質に他ならず、そこで賭けられるのはゲームであり、権威であり、正当性である。このように見ると、戦争は最も真実な占いの形である。それは己の意志と他者の意志を、両者を結びつけるより大きな意志の中で試す行為であり、その意志は、両者を結びつけるがゆえに選択を迫られる。存在の統一を強いるがゆえに戦争は究極のゲームであり、神そのものである」
おまけ:中国のミレディコミュニティ