⑥習い事の始め方
「習い事」、「お稽古ごと」を始めるのはどういうタイミングか、何を選べばよいのか、子育て中の友人同士でよく話題にのぼります。将来の進路に役立つようにとか、早くから英才教育を受けさせたいとか、一生続けられる趣味を持ってもらいたい、などという親なりの期待があるかと思います。なにかに打ち込む体験をしてほしい、集中力を身に付けてほしい、身体を鍛えてほしい…期待は尽きません。
我が家の場合は、娘がごく小さかったときは私の仕事が忙しかったことや、体調がすぐれなかったことなどで、何かを習わせようという余裕が親の私たちの方にほとんどありませんでした。それでも、なにか好きなことを見つけてもらいたいな、そのきっかけになるなら、習い事をさせてもいいのかな、と漠然と考え始めたのは、彼女が幼稚園入園年齢すなわち3歳になった頃でした。ただ、幼児教室や公文、英会話のようなところは、雰囲気が私たち家族に合わないと感じていましたし、そのような「お勉強系」の習い事は本人が大きくなって自身でやりたくなってからでも十分間に合うと思っていたので、最初から視野に入っていませんでした。
子どもに何かを習わせるに当たって、とくに重要だと思う点は、3つあります。ひとつめはもちろん、その子の特性に合っているもの。ふたつめは、少し意外かもしれませんが、親が付き添って飽きないもの。みっつめは、良い先生をじっくり選ぶこと、です。
その子に何が向いているか。まずはひたすら観察することだと思います。普段の娘の様子を観察していると、音楽が好きで歌うことが好きなこと、音楽に合わせて体を動かすことが好きな子どもであることが分かっていました。自作の歌を作って適当な歌詞で歌ったり、自分の名前をつけた創作ダンスを踊ったりしていました。これは小さな子どもなら皆そうなのかもしれませんが、あまりにも本人が楽しそうにやってみせてくれるので、これは心底好きなのかもしれないと思ったのです。
さあ、それでは具体的にどんなことをさせたらいいのか? 音楽好きならば、一般的にはピアノなど楽器を習わせる。体を動かすのが好きならば、スイミングなどスポーツを習わせるか、ということになります。ちょうどその頃自分が体調を崩していたこともあり、娘には体を動かす習慣を身につけて健康な体になってほしいという願いもありました。うちの子は、性格が引っ込み思案で、初対面の人には、私の後ろに隠れていて挨拶もなかなかできないというくらいおとなしい子でした。ですから、もっと自分を前に出せるような子になってくれたら、とも思っていました。
そこで思いついたのがバレエです。バレエは音楽に合わせて身体を動かせるし、なにより美しい姿勢を養うことができるのが魅力です。慢性的な肩こり持ちの私は、「姿勢は一生モノ」といつも言っていました。当時、子どもの運動系の習い事といえば、スイミングが流行っていました。けれども、私自身が、プールサイドであれにつきあわされるのはかなわないな、と思っていました。子どもが小学生くらいまでは、習い事には親が付き添います。そうなると、一時間もその子どもの様子を見ていなくてはなりません。ですから、親自身が退屈してしまうようなものは、そもそも長続きしないということになります。私はバレエ経験はありませんが、観るのは好きで、国内でも海外でもバレエ公演には足を運んでいました。娘がバレエを習っているのを眺めるのは、きっと楽しいに違いない、とピンときたのです。
早速、当時住んでいた東京の家の近所のバレエ講座もやっているスポーツクラブに連れていきました。(バレエの専門のスタジオはなんだか敷居が高く、ちょっとお試しで行ってみるという感じではなかったからです。)親子ともども緊張して出かけた初日、同じような年頃の女の子たちが、仲良さそうに元気よく身体を動かしている様子に娘は圧倒され、私の傍を離れようとしません。これはまだ時期が早かったのかな、それとも彼女には合わないのかな、などといろいろ考えましたが、無理強いはしないことにしました。
いろいろなご縁があって東京から地方に引っ越して、新しい保育園に入って間もなくのことです。(地方は東京のような激烈な認可保育園入園競争はありませんので、あっさり希望の保育園に入園できました。)娘は四歳になっていました。ある日、お迎えに行ったお母さんたちが園庭でなんとなく話していると、娘より二歳年上の女の子が、保育園から車で5分ほどのバレエ教室に通っているということが分かりました。その子は幼いながらも背が高く、すらっとしたとても素敵な感じの子でした。そこで、その子のお母さんに詳しいお話を聞いてみることにしました。
そこの教室は地元で歴史のある教室で、先生はとても厳しいけれどきちんと教えてくださること、先輩の中からはプロのバレエダンサーも輩出しているという本格的な教室とのことでした。さっそくその日に電話してみたところ、キビキビした感じの女性の先生が電話に出られ、「今週からどうぞ。見学にいらして下さい。」と言われました。これは娘の子育て全体を通じて言えることですが、何かを始める時、不思議とうまくいくときはトントンと話が進むことが多いです。なにかちょっとしたタイミングとか相手の都合などで回り道したり故障があったりすると、結果うまくいかないことが多いように思います。これが「縁」というものなのでしょうか。
結果的に、この教室との出会いが、その後の娘の成長と青春に大きく影響を与えることになったのですから、本当に不思議です。ですが、はじめから順風満帆にいったわけではありません。広いスタジオにぐるりと回されたバーに、お行儀よくレオタード姿の少女たちがレッスンをしているのを見て、娘は「ただ見て」いただけでした。はじめてのレオタードを着て、はじめて短めの髪をちっちゃなシニョンにようやく結ってスタジオに入るのですが、バーにつくでもなく、身体を動かしてみるでもない。じっと立って見ているだけです。それでも、みんながバーの方へ行けばなんとなくその近くに、センターで踊り始めればなんとなくその近くに移動はします。その姿を見て、私はじれったくてじれったくてたまりませんでしたが、ぐっと我慢して黙って見ていることにしました。次の週にも同じ様子でしたので、たまらず先生に「うちの子、大丈夫でしょうか。」とご相談しました。先生は、うろたえている私とは対照的に、冷静にこう言われました。「大丈夫ですよ。本当にバレエが嫌いな子は泣き出してしまって、スタジオから出ていってしまいます。でも、あの子はじいっと見ているでしょ。周りをじっくり観察して大丈夫、と思ってから始める子です。お母さんもどんと構えていて下さい。」
なるほど、プロというものはすごい、と感心しきりでした。たくさんの生徒と真摯に向き合って教えていらした経験は、本質的なことを見抜くのです。四六時中一緒にいて、わが子のことは母親の自分が一番良く知っていると思っていたのに、それはまったくの思い込みだったと思い知りました。単なる引っ込み思案ではなくて、「周りをじっくり観察してから始める子」! なるほど!
三週間ずっと何もせずに立っていた娘でしたが、先生の予言通り、四週目になってようやく、バーについて見よう見まねで手足を動かし始めました。それまでに何度も、「やりたくないのなら、やめる?」という言葉が喉もとまで出かかりました。本当に、先生のあの時の言葉を信じて待つことが出来て、良かったと思います。
お稽古ごとを始めるに当たって、良い先生、一流の先生を探すこと、それが親が一番手を抜いてはいけないところだと思います。「良い」とか「一流」とかいうのは、なにも経歴が立派だとかそういうことだけを指しているのではありません。それよりも、子どもを導く教育者として、導き手として尊敬できる先生であること。それが何よりも大切です。子どもが出会う大人として、ふさわしい人物であるかどうか親が見極めるということでもあります。
娘はその後もいくつかの習い事を経験することになるのですが、常にどの先生にお願いするのかということは第一のポイントでした。子どもが成長の過程でどのような師に出会うのか、どのような大人に出会うのかは、その子の一生を左右すると言っても過言ではないかも知れません。子どもを育てるときにプロの第三者の目はとても重要です。先のバレエの先生のように、親も気づかないその子の資質を見出し、伸ばしてくださる存在だからです。
よく教員仲間で話題になるのは、「自分の子どもは教えられない」ということです。たとえば、家で我が子に算数の宿題を教えている時。子どもがなかなか理解できないと、「どうしてできないの! さっき教えたのに!」とつい声を荒らげてしまいがちです。相手が我が子だと、導火線が短くなるというか、期待と愛情が大きいゆえに、つい感情的にいらいらしがちになり、子どもも「もういい!」ということになってしまいます。ですが、同じ人が、親としてではなく教師として他人の子どもを教えると、じつに気長に冷静に教えることができる。もちろん生徒に対する愛情はあるのですが、そこに適度な距離があるため、客観的にその子を観察できるし、どう教えたら伸びるかという視点が生まれます。だから、第三者の先生に一緒に育ててもらうことが、我が子のためにはどうしても必要ということになるわけです。
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