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剣 18
さてもさてさて
その夜を迎えております大沢美好は、居酒屋にて酒を飲んでおります。これから命のやり取りに向かう身としては、末期の酒といったところでしょうか。
それでも酒は一本きり、大根と卵を食べると店を後にしていきます。まだ亥の刻には多少の間がありますが、辺りの店はとうに閉まり、人通りも疎らとなってきております。
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(夜風が気持ちいい。)
飲んだ酒が身体を温め柔らかくしてくれている。大根と卵は好物だった。
(素直になるというのは、大切なんだな。)
大沢美好はそう思う。己の考えに呑まれている内は、何やら狭くなる。当たり前の事や思い当たりそうな事が分からなくなる。
(思い巡らせてみればいいのだ。)
何故、町医者がただ治療に来た者に玉千鳥の話なぞするのだ?辻斬りが出たかも知れぬではないか?
相手は首筋を斬ったのだから、剣と思うが普通。
美好の話が広がったとしても、脇差しの類いと思うのが当たり前ではないのか?
あれだけ見事に斬ったのだから、武士と思わずに玉千鳥と言い出す事はおかしな話なのだ。
(つまりあの医者は俺に誘い水を掛けた。)
だから美好はわざと診療所に立ち寄ったのだ。
武の中に生きると意気込んでいれば、玉千鳥などと聞けば意気込まねばならぬと凝り固まる。これを斬らずに何の武士かと。
馬鹿な話だった。だからこんな簡単な策に騙される。
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あの団子屋も既に閉まっている。店の前まで来てみたが、一体何処で待てというつもりだろうか。
馬鹿にされたものだと思うが、今の美好としては怒る気にはならなかった。己が悪いに過ぎぬ。
(俺は斬りたいのではなかった。敵なぞ居らぬ世に斬れ
ると言いたかっただけだ。あの怖さを覚えた事を恥
かと恐れた。そういう事なのだ。)
生類憐みの令、それを理由とした。
武士ならば怒るが当たり前と信じた。
だから憤ってみせるのが当然だった。
だが師は言った。生類憐みの令は戦国の心構えと同じであると。
師は戦さ場を生き残った武士であった。その師が生きた空気は今の世には確かに無い。されどその末に天下を取られた将軍家が広めた令は、確かに戦国を生きたものであった。そう合点が行った時、大沢美好は初めて己の本当の気持ちに向き合えたのだ。
(あんな空気は無い方が良いのだ。)
幾多の血の上に成ったこの世を喜びこそすれ、恨むのは筋違いも甚だしいのだ。今は戦国の様には生きられぬ者で溢れ立つ。
不満を覚えるにも、聞き知った話で作り上げた戦国があるに過ぎない。肌で感じ過ごさぬ事を絵空事で知った気になる。または肌身が知るが故に懐かしく縋り付くかの、どちらかだ。
どちらとしても馬鹿馬鹿しいのだ。
大沢美好は夜風に吹かれながら、自分の中に刹那に広がった考えを噛み締めた。
もし今宵死ぬとしても、こう思えた自分に悔いは無い気がしていた。
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成程、大沢美好は一皮剥けた様であります。
人の考えは狭まれば外からの声を弾くもの。
弾かれずに胸の内まで届く言葉があったのなら、それこそは神代兵馬の言う天命ある者なのかもしれません。
されど大沢美好はまだ付け焼き刃。果たしてこの決着は、如何となりますでしょう。
つづく