老獪望郷流れ小唄 5
何度も頭を下げて離れていく老夫婦を見送ると
「いやぁ面目ねぇ、先生。全く気付けなかった。開け
っぱなしの家だから、気は張ってんだが。」
鉄斎が詫びてくる。が、気付かなかったのは良源も同じ事だ。
「いや、そういう家だから却って良いのさ。俺や鉄っ
あんなら気配は見逃さねぇしな。」
「まあ、いつもならねぇ。正直、全く分からなかった
んでさあ。」
鉄斎は頭の良い男だ。詫びてはいるが、それよりも何故と考えている。
それは良源も同じ事だ。まさか自分に気取られない者がいるなんて、、、
「鉄っあん、どう思う?」
「どう思うったってぇ、、まあ、ただね、あんな邪気
の無い爺さん婆さんは珍しい。そうそうはいるもん
じゃねぇでしょう。」
「ああ、確かにそうだなあ。」
「こいつは、今んとこのおいらの推量なんですが、、
あれだけ素朴だと却って引っ掛かりにくいのかもで
すね。」
確かに人の気配というのは、何かに塗れているから生まれるものかもしれない。
悪意や邪気が有ればピリりと張り詰めたものが来る。
楽しみや喜びでも足運びや息遣いが知らせてくれる。
そう考えてみると、あの老夫婦は純心だ。穏やかで包み隠すものが無いように思う。
「つまりゃあ、俺たちが汚れてるって事か。」
「何を仰いますやら、江戸一番の名医様が。」
「よく言うぜ、鉄っあん。物の怪退治の片棒担いでん
だぜ。綺麗なんざ言えねぇさ。」
「まあ、確かにね。上手い事やったつもりですが、こ
の玉を見られてなきゃあいいが、、」
「なぁに、見られた所で綺麗な石程度の事だろ。こう
やって偶に人目に付きやすくしてんのも、釣れるの
が連中だけだからよ。」
良源は普段は見せない顔をした。
唇の片方だけを吊り上げた不敵な笑いだ。
「あーあぁ、流石は良源先生だ。」
鉄斎は呆れた様に笑い返した。
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朱い月、朱い月
こんな所にありやした。
ひっくり返して、拾って掠め
オラが国まで、走って帰ろ。
帰り着いたら、皆で囲んで
美味い飯でも食いなんせえ。
下手な小唄が聞こえた気がする。
まあ市井の者が酔って歌うのなんて、こんなもんだ。
「勇也、誰か歌ってるね。」
「あ?美代にも聞こえたのかい?」
「夜も更けてきたってのになあ。」
やがて風が違う声を運んでくる。
おぎゃあ、おぎゃあ、、微かな僅かな赤子の泣き声。
「ああ、赤ん坊をあやしてたんだね。」
「夜泣きってヤツかい。大変だなあ。」
「何よ、他人事みたいに。」
「へっ?」
「いつかは勇也もおんなじ事すんのよ。夜中に泣き出
した赤ん坊あやしに外に出てさ。冬ならもっと大変
だよぉ。」
美代が悪戯っぽく勇也の顔を覗き込んでくる。
「何だよ、まだ先のこったろ、、おい美代!まさか、
デキたのか!?」
「あはは。ほら勇也、夜中に何大きな声上げてんの?
さあ、帰ろ。屋台も終わって楽しい我が家へ。」
美代が勇也に腕を絡めて引っ張って行く。
「おい、美代!どうなんだ!?
俺にも心構えってもんがなあ。」
「はいはい、帰るよぉ。」
美代が笑いながら夜道を歩く。
その後ろで、また少し赤子の泣き声がしていた。
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ドンドンドン
「先生!先生!」
ドンドン、ドンドン!
同じ頃、良源の診療所の戸を叩く者がある。
「先生、先生!」
ゆっくりと開けた戸の前にいたのは
「ん?お咲さんじゃないか。どうしたんだい、こんな
時分に?」
「良源先生、何処かで赤ん坊の泣き声が聞こえたんで
す。この近所みたいで。」
「何だって?俺は調べ物をしていたんで、気付かなか
ったな。」
「それがぁ、その声が大きくなったり小さくなったり
で、、何か変なんです。」
「どう変なんだい?」
「まるで歩き回ってるみたいで。」
良源の目付きが僅かに鋭くなる。
ここしばらく大人しかったのに、釣り餌に食い付いたって訳かい。
つづく