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雪風恋情心火華 2
「赤い、赤いよ、兄様、、」
紫乃は夕暮れの縁側に力無く座り、空を染め上げる赤に見入っている。広くもない家だが、縁側の先に小さな庭と井戸がある。うどんを打つには水が要る。この家を作ってくれた勇也や鉄斎が気を利かせてくれたのだ。
だがここしばらくは、こんな何もしない日を続けている。屋台も休んだままになっている。
夫、、信幸が死んだからだ。
(結局、何者にもなれずに、、)
紫乃は兄の形見の朱い石を握り締める。この石は兄が山に出た時に珍しいと拾ってきた物だ。紫乃はその輝きに見惚れた。
(兄様、、私は努めたのです。武家の女子として恥じぬ
ようにと、、私は、私の心を抑え込んで。)
紫乃が手を開くと、そこにある朱い石が空に広がる残陽の赤を吸い取る。気のせいか燃える熱を感じた錯覚がある。手を傾け揺らす度にその熱は上がり、初めてこの石を見た時の甘い騒めきを呼び起こしていく。
そんな感傷は信幸ではなく兄•慎之介の姿に変わる。
(兄様の武士としての想い。辛酸を舐めたとて継ぐなら
ば分かるものを、、)
掌の石がまた燃えた気がする。
(刀を抜いたならば、斬るのが武士。それを成さぬは愚
か也!)
目の前に溢れる赤い世に立つ兄•慎之介が大きく頷く。
紫乃にはそれがはっきりと見えている。
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「どうだった?」
「うん、、少し食べられる様にはなったみたい。」
「そうか、、こういう時こそ食わなきゃなぁ。」
「明日もおにぎり持っていってみる。」
「汁もな。」
「あっ、あのね。」
「どうした、美代?」
戻ってきた美代の顔が初めて少しだけ華を持った。夫•信幸が突然腹に包丁を突き立て自死したのだ。紫乃はすっかり塞ぎ込んでいた。食事も取らないのを気に病み、美代は毎日握り飯と汁を持って通っていた。
美代と勇也は祝言を上げてひと月程で、こんな事になるとは最初はただただ驚いた。それから、この夫婦が居なければ自分たちは出会えなかったという気持ちを強く持った。
だから出来るだけの助けになろうと二人で決めていた。
「流園さんが屋台を引き継ぐつもりみたい。今日もうど
んを打つ稽古をしてた。持って来るのも大変だろうか
ら、仕込んだうどんの汁を使おうって。」
「あー!ついに決まったのかい。」
佐納流園は旅の女形役者であった。江戸には一緒に一座を逃げた女と落ち合う為に来た。だがもう季節が半分以上巡ったにも関わらず、女は一向に現れない。
逃げたのか、生きているのかも分からない。
そんな考えから一時は心を乱し酒に逃げた流園を、女飛脚の雪は屋台に来る度に健気に励ましていた。
やがて流園も気を持ち直し、江戸に生きる術を見つけねばと考え始めた。元が役者であるから力仕事は得意ではない。いつまでも食い繋ぐ為の人足も続けられないと自分で分かっている。
そこで、そんな姿を見ていた信幸が屋台に誘ったのだった。
「そうかい。まあ、今年の夏は暑いからなぁ、出汁の効
いたうどんの汁の方が飲みやすいやなぁ。」
「だねぇ。今はさっぱり飲める方が、身体も受け付け易
いと思うんだあ。」
「俺たちは汗かいて働くから味噌汁の方がいいが、ずっ
と引き篭もりきりだもんなぁ。」
「だからね、流園さんが居てくれるのもいいと思うんだ
よね。お雪ちゃんも顔出してるみたいだし、うどんの
匂いも落ち着くかなぁって。」
「却って思い出しちまわねえか?」
「そうかな、、紫乃さんは強い人だから、逆にやらなきゃって思い立つ気がしてね。」
「そうかぁ、そうだなあ。信さんがあんだけ頑張ってやってきた事だもんなあ。」
「うん。いちばん近くで見てきた旦那さんの気持ち。あたしだったら、継いでかなきゃと思うから。」
「そうだなあ!美代、そんな風に考えられるのはスゲぇ事だよなあ。」
「何よ、勇也?」
「ん?女は男とは違うトコが強え。男にゃあ勝てねぇトコがあんだよ。美代と居ると、そう思うぜ。」
「そうなんだ?あたし、何かした?」
美代がやっと悪戯っぽく笑う。
勇也はこの顔を守らにゃあなと、改めて思った。
つづく