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うらやましがり

先日、仲の良い友人と久しぶりに食事をした。例の厄介な疫病が流行して以来、初めてだ。そもそもその前からお互い予定が合わず、会ってもゆっくりする時間もなかったので、一緒に食事をしたのは本当に何年ぶりだろう。

その晩はまず、アートブックフェアへ行き、それから何か食べようということになった。以前、ヴィトゲンシュタインに関する記事を書いたことがあるという友人は、ヴィトゲンシュタインハウスの近くにあるイタリアンに行こう、と提案してくれた。そのエリアには自分も住んだこともあり、懐かしい場所でもあったので、すぐ賛成して出かけた。

友人の話では「落ち着いた雰囲気の、居心地のよい、隠れ家的な」店のようだったが、何のことはない、大通りに面した、しかも自分も前に何度か行ったことのある普通のレストランだった。この友人は、人に興味を持たせて話をするのがうまい。確かに雰囲気は悪くないのだが、初めての店に行けると思ってワクワクしていたので、ちょっと拍子抜けしてしまった。しかもメニューは定番ばかりで(それ自体、大変良いことではあるのだが)、ピンとくるものがあまりない。多分、友人の話ぶりから「特別な料理を出す特別な店」を期待してしまったからだろう。今日は“トルテリーニ アッラ マンマ ローザ”あたりかな、と思ったそのとき、「僕、トルテリーニ」と、友人はさっさと決めてしまった。同じものを頼んでもつまらないので、自分は“ペンネ アッラ ノルマ”を頼むことにした。

運ばれてきた“ノルマ風ペンネ”は、さいの目切りにした具材をきれいにまとめてペンネに乗せたもの。これまで出会ったことのない感じの小洒落た“ノルマ”だった。ただ、量が半端ない。具がトマト、ナス、チーズだけだからだろう。一方、友人が頼んだのは、リコッタチーズとほうれん草の詰まったトルテリーニに、マッシュルームとハムの入ったパプリカ風味のクリームソースをからめたもの。質の違いからか、“ノルマ”よりずっと量が少なく、上品な感じだった。大柄で大食いの友人と、お皿を取り替えたほうがいいのでは?と思ったほどだった。

「わあ、おいしそうだね」「食べてみる?」と友人。そう、この人は何でも最初に味見をさせてくれる。「うん、いい?」と、早速サーモンピンクのクリームソースがかかったトルテリーニを口に放り込む。やみつきになりそうな、しっかり味でコクがあり、もう一口も二口も食べたいほど美味しかった。「これも食べてみてよ」と、我が“ノルマ”を差し出す。やはり食べることが大好きな友人は「どれどれ」とうれしそうに、しかもいい具合にパスタと具をフォークに突き刺してパクつく。そして「うーん」と、ロバート・デ・ニーロ風の渋い満足げな顔。そう、この人はモノマネが上手だった。イタリア人の仕草など、お手の物。バルカン系の真似もうまい。あのパンデミックのせいで、いろいろと忘れかけていたことを思い出してきた。とにかく久しぶりだったので、あれやこれやと話が弾んだのだが、その間も友人が食べているトルテリーニのほうが、どうしても美味しそうに見えて仕方なかった。人のものは何でもよく見えてしまう。うらやましがり、よくない性格だ。

10月26日はオーストリアの「ナショナルデー」だった。1955年5月15日に第二次世界大戦における連合国(米英仏ソ)との間で締結した「オーストリア国家条約」に基づき、オーストリアは同年10月26日に永世中立を宣言した。それをもって戦後10年に及ぶ連合軍による占領から解放され、ようやく主権を回復した。

このナショナルデーには毎年、オーストリアの大統領がゴールデンタイムに国民に向けてテレビ演説をする。「国民向け」とはいうものの、少し前から大統領は冒頭で「オーストリア国民とオーストリアに暮らす皆さん」と呼びかけるようになった。いったい、いつ頃からそうなったのだろうと急に気になり、調べてみると、2020年からだった。現大統領アレクサンダー・ファン・デア・ベレン氏が就任したのは2017年。前任者たちの「皆さん、こんばんは」の挨拶をずっと受け継いできていたが、2020年からはオーストリア国籍を持たない人々も「巻き込む」ようになった。これぞ最近よく耳にする「インクルージョン」である。

今年の演説を聞いて、あらためてオーストリア国民がうらやましくなった。例の疫病が蔓延していた頃の演説にも感心したが、今年も国民に寄り添う内容だった。今の世の中、ウクライナ情勢、イスラエル・パレスチナ情勢、自然災害等々、暗い出来事ばかりでうんざりしてしまう。「耳をふさぎたくなる、その気持ちはわかる」とファン・デア・ベレン氏。しかし、大事なことを見失ってはいけない、と語りかける。わが国と世界がどこへ向かうのか、無関心でいてはならない、そう警告する。そして、こんな状態になったことを、いわゆるエリートたちや見た目が違う人々、考えが異なる人々など、人のせいにしてはならない、とも。

さらに政治家たちにも呼びかけていた。与野党ともに、具体的な問題の解決に真摯に取り組んでほしい、国民を惑わすな。それからもう一度、国民に訴えかける。闇としか思えないような今の時代にも光はある。その光こそが、自分たちである、と。私たちはひとりではない。そばに誰かがいる。助け合える人がいる。考え方は違ったとしても、互いに手を取り合うべきだ。静かな口調でそう語っていた。

なかなかいいことを言うなと思った次の瞬間、オーストリア国民をぐっと持ち上げた。「私の知る、私の信じるオーストリアとは、思いやりに満ち、親切で、知的で、先見の明があり、リベラルで、おもてなし上手で、社交的で、自由で、平和を愛する国」

うーん。ほぼ当たってはいるが、ここだけの話、ちょっと言い過ぎかな? でも、そんなふうに胸を張って言えるなんて、とてもうらやましい国だ。

トルテリーニを味見させてくれた友人も、そんなオーストリアの国民だ。自分では「ちょっと違う」ほうがいいと思っているらしく、「オーストリア人っぽくないね」と言ってあげると喜ぶのだが、どこから見ても正真正銘の愛すべきオーストリア人である。大らかで、のんびりしているけれども、賢く、ここぞという時には底力を発揮する。何だかうらやましい。

さて、日本はどうだろうか。オーストリアがうらやましく思えてしまうのは、うまいこと美味しいトルテリーニを頼んだ友人のせいだろうか。

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