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「そういうものか」と一息してみる
写真を撮ることは心底好きなのだけれども、それでも写真を撮り続けるということの難しさを感じる時もある。この難しさの正体を今回は掘り下げていこうと思う。
・新鮮さを求め続ける難しさ
京都の街を舞台にスナップ写真を初めて3年ほどが経とうとしている。それまで野鳥撮影を中心としてきた自分にとってはとても新鮮で、京都の観光地、またそれ以外の生活の場で撮影をすることはとても楽しかった。しかし、3年も経つと「もう京都の街は撮り尽くしたな」と感じてしまう部分もある。冷静に考えると、まだまだ歩いていないところは沢山あるのだが、先のような単純な思考に陥ってしまうのが現状である。撮れば撮るほど新鮮さが失われて、決して認めたくはないが、大好きな京都に対して、「飽きた」という感情が頭の中でチラつく。そうなってしまうと、街を歩いても以前のような新鮮さには出会えず、写真も撮れないのではないかと考えてしまう。
では一体この感情にどう折り合いをつけたら良いのだろう。
【対策1】冷静に考える
先ほど述べたように、冷静になればまだまだ歩いていないところは沢山ある。私は、四条河原町エリア・祇園八坂神社エリア・鴨川・京都御所・嵐山をよく訪れるが、西京や京都駅以南はまだ未到達のエリアが多い。「完全制覇してないじゃないか!何が撮り尽くしただ!」と自分に喝を入れてみるのも良いかもしれない。
【対策2】数に拘らない
カメラをもって出かける以上、一枚でも多くいい写真を撮ってその日を終えたいというのは当然なのであるが、そこをじっと我慢する、そっと静観するということも必要だろう。多く撮ることを意識しすぎると、そこまで琴線に触れてないものに対してもなんとなくシャッターをきってしまうことになる。やはり、なんとなく撮ったものは、ぼんやりとした写真になってしまう。自分が視線を注いだ部分がぼやけてしまうのだ。そこはやっぱりどっしりと構えて自分のフィルターにかかるのを待つべきであると考える。その他、撮れないことを自分のせいにするのでなく、世界のせいにしてみる。そういう身勝手さも必要なのかもしれない。
【対策3】スナップ写真って実は飽きやすいものではないのか
ついつい自分にベクトルが向きがちなってしまうが、そもそもスナップ写真が飽きやすいんじゃないのかと疑ってみる。この点に関して、『ありのままのイメージ スナップ美学と日本写真史』(甲斐義明, 東京大学出版会, 2021)に興味深い記述があった。
スナップ撮影はその本性上、容易に退屈になり得るものであり、スナップ美学に忠実な者であればあるほど、そのマンネリ化が許せないはずだからである。
ここでいうマンネリ化というのは、同本の表現を借りれば、世界がパターン化して見えるということで、そういった見方や考え方をもったまま写真を撮り続けるのは容易ではないと述べられている。
この記述を見た時に、「なんだ。そもそもスナップ写真って飽きやすいもんなんだ。そういうもんなんだ。」と思った。こうなると一転、スナップ写真を撮り続けてる自分ってすごくない?という見方もできるようになる。そもそも難しいことをしてるんだったら、悩んで当然だよねと。
・でも写真って不思議なもんで
世界はパターン化されているという思考とぶつかりながらも、毎回違う写真を撮ってくるのは不思議だなと思う。似たようなシチュエーションになることはあるかもしれないけども、決して同一ではない。何回も歩いた散歩コースでもやっぱり毎回違う写真が撮れるのである。ここは何度きてもいいなぁと思って同じ景色を撮ることはあっても、そうして重複する写真なんてものはごく一部だし、前回興味をもったところは、次回には意識しなければ気づきもしない場合の方が多い。
・一息つきながら
長く写真と付き合っていくには、どうすればいいのか。これからも悩むとは思うけれど、肩の力を抜きながら進めていくのが必要かもしれない。
撮れば撮るほど、知れば知るほど、新鮮さは失われていくかもしれない(ある意味これが洗練されるということなのかもしれない)。その一方、洗練された先で出会うシーンは一体どう自分に働きかけてくるのか楽しみでもあるし、その過程で、変わらずに出迎えてくれるシーンの尊さみたいなものに気づけるといいなと思う。むしろここからが本番なのかも知れない。