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写真には「私」がいる

 先日、友人Aからとある話を聞いた。言い出しが「言った方がいいかはわからんけど…」という感じだったのでなんだか、良くない雰囲気を感じた。友人Aは続けて「この前、お前(筆者である私)の写真の話になった時に、友人Bが彼(筆者である私)の写真は『機材だけだ』と言っていた。」と言ってきた。その瞬間、複雑な感情になった。ショックだった。悲しかった。私は「それは一番言われたらショックな言葉やな…」と呟き、言葉を失った。その後しばらく、『機材だけだ』という言葉が頭の中で反芻すると共に、その言葉を否定したい自分と一部肯定する自分が議論をし続けた。

・友人Aについて
 まずは友人Aについて言及しておこう。話によれば友人Aは、友人Bの感想に疑問符を抱き、ささやかな抵抗感とショックを感じていたようだ。私は正直、「言っていいか迷っているのであれば、言って欲しくはなかったかな」と心の中で感じたが、少なくとも、私の写真が『機材だけだ』という言葉一つで言いくるめられないと思ってくれているようで、彼なりの不器用な優しさを感じた。改めて、自分の写真を好んでくれる人の存在のありがたさを感じた。

・悲しみの理由
 『機材だけだ』と自分の写真が評価を受けたことで、なぜショックを受け、悲しくなったのか、その後考えてみたが、その理由の一つは「撮影者である自分の存在が否定され、無視された気分になったからだ」。確かに、写真の仕上がりに機材は大きな影響を与える。スマホよりも高価なカメラの方が綺麗に写せるし、野鳥撮影には望遠レンズがないと、アリ撮影にはマクロレンズがないと物理的に満足のいく撮影はできない。なので、機材の力が、写真の良さを形作っていることは否定できない。しかし、各々の写真には、「その日カメラを持っていた自分」「たまたまその道を選んだ自分」「眼前の現実に感嘆した自分」「カメラを構えてワクワクする自分」など色々な自分が存在しているのだ。『機材だけだ』という言葉は、これらの自分を抉って、まるで存在していないかのようにさし迫ってくる。
 言葉の鋭利さが悲しみの理由になっているのもそうだが、『機材だけだ』という言葉が、私の写真を見て「すごい」などの感嘆の言葉をかけてくれた友人Bから発せられたという事実にもショックを受けた。
 まあ、友人Bは少し口下手なところもあるし、友人Aを介して聞いた話なので100%その真意は読み取ることができない。


・今回の出来事を受けて
「機材だけ」なんて言葉は、人に向けて使う言葉ではないなと思った。写真を撮るものだからこそ、写真を撮る人の苦労や努力を想像できるように自分も成長していきたいと思った。また、昨今技術の進歩により、撮影は飛躍的に簡単になっているが、どれだけ技術が進歩し、簡便になろうとも、それを使う人間が確実に存在するということだ。人間の存在が技術に霞んでしまわないように、自分は写真と向き合っていく必要があると感じた。

・最後に
 最後にこの出来事について考える上で、パッと思い浮かんだ言葉たちを、これまで読んだ本から引用し、紹介して終わることにする。

写真はどこまでも真実を守ることで絵画の抽象化とは違った道を進むものである。
単なる写実ではなく、対象をどのように感じ、どのように強く受け入れるかということだ。そこに何か本当に作者が闘っている姿がなければならない。

梶川芳明・野嶋諭 編『木村伊兵衛』何必館・京都現代美術館 2002

これは木村伊兵衛が残した言葉だ。写真の前にあるのは機材ではなく、それを扱う・現実に対峙する人間そのものだ。少なくとも自分だけは、自分の存在を叫び・主張し続ければならない。

いい写真を撮りたかったら、まず自信をもつことである。年中びくびく、不安なあやふやな気持ちでいるのでは、それは謙譲でも謙虚でもない。要するに自信がないと言われてしまう。
もし写真そのものに対して自信がないならば、その写真は人に見せるべきではない。自信があればこそ、自分の写真をけなされた場合にも、何を言ってやがるんだと思い、自分の写真をほめられた場合でも、いやそれほどでもないよと軽くいなすことができる。人の一顰一笑を気にすることはなくなる。いばったり卑下することもない。

土門拳 著『死ぬことと生きること』築地書館 1974

何を言われようと、自分の写真に自信をもとう。そこに写っているのは、紛れもなく自分の心を震わせた愛しい現実なのだ。

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