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京都国際写真祭を巡る4-絶対非演出について考える-

 第四弾目のこの記事では、京都芸術センターで展示されていた小池貴之さんの写真を見て感じたことをまとめていく。
 展示室を訪れて、部屋の中をぐるっと見回すと名札を下げた一人の男性が目に留まった。名札には作家本人と書かれていた(確かそうだったはず…)。これまで写真展をいくつか回ってきたが、本人が在廊されているのはここが初めてだった。初対面の人に話しかけるのは苦手だが、勇気を出して話しかけてみた。すると写真家さんは丁寧に受け答えをしてくれた。話しかけるのが写真を見る前だったのと、特に内容を予習してきたわけではなかったので、まずは「この展示作品のコンセプトは何ですか」と聞いてみた。話によると、今回の展示はシベリアの列車旅のなかで見た景色や出会った人々を撮ったものだという。次に「なぜ行き先をシベリアにしたのですか」と聞いてみた。この写真家さんは北海道出身で、子供のころに大人たちからロシア人の印象はあまり良くないと聞かされていたらしい。しかし、実際のところロシアの人々の印象はどうなのか、自身の目で確かめたいという気持ちもあって、行き先をシベリアにしたそうだ。
 展示作品のなかでも、特に列車内の人々を写した写真が目を惹いた。そこに写っている人々はとても自然に撮影されていた。人々の意識がカメラに向いておらず、被写体がその時のまま保存されていた。これらの写真はどの様にして撮ったのか本人に聞いてみると、列車の中で人々とコミュニケーションをとり、その中で撮影したと答えが返ってきた。ロシアの人々と実際に会話をしてみると、非常に優しくて、また困った時は手を貸してくれたそうだ。
 「写真を撮りまーす」と声がけをして人物を撮影する場合、被写体の注意はカメラの方に向く。いわゆる記念撮影的な写真になる。撮影の為に、表情やシーンが少なからず作られるのだ。自然発生的に生まれた表情・シーンを捉えた写真(絶対非演出)と指示のもと作られた表情・シーンは明らかに異なる。どちらを写真にするべきかは状況によるが、自然発生的な表情・シーンを捉えるにはコミュニケーションの有無や度合いが効いてくると私は考える。
 一つの方法として考えられるのは、被写体とのコミュニケーションを取らないということである。私自身街でスナップ写真を撮るのだが、人を写すときには基本的に声をかけない。声をかけてしまうと、自分の琴線に触れた刹那のワンシーンが瓦解してまうからだ。これはとても自己中心的な考え方で、写真家のエゴのような部分である。が、この方法をとることで、街中に生きる人々の温かいシーンや哀愁漂うシーンをありのままに撮ることができる(このような被写体に許可を取らないスナップ撮影において私自身気をつけていることや「思い」については、いつか記事にしたいと思う)。この他にもイベントの撮影やお祭りの演者を撮影する行為もこれに相当する。基本的に撮る・撮られるがコミュニケーションを介さなくても暗黙の了解で成立している。
 もう一つは、被写体とコミュニケーションをとることで自然発生的な表情・シーンを捉える方法である。今回の小池貴之さんの写真はまさにこれで、被写体とのコミュニケーションの先に写真が成立している。これは撮る・撮られるという両者の事務的な契約ではなく、人と人とのコミュニケーション、ある種の信頼の上で成り立つ。身近な例でいうと、家族や友人を撮る場合がそうだろうか。写真を撮る者(写真家)としての自分よりも、家族・友人としての信頼性があるからこそ自然な表情やシーンが撮影できる。このようにコミュニケーションを介して絶対非演出的な写真を撮影する場合は、写真家という肩書きや撮影実績(技術的信頼)以上に、人としての信頼性が重要ではないかと考える。
 最後にタイトルで用いた「絶対非演出」という言葉について補足しておく。この言葉は土門拳の著書で知った言葉だ。以下に引用部を記させていただく。

撮らせよう、撮ろうという、いわば自由契約の関係で出来るのが、肖像写真である。だから、撮られる人は、初めから他所行きである。しかし、撮られている人に、撮られているということを、全然意識させない肖像写真こそ、今後最大の課題である。つまり、絶対非演出の、絶対スナップ的肖像写真こそ、今後の課題である。
玄関払いを食わせるような手強い相手ほど、かえっていい写真が撮れる。玄関払いを食ったら、写真家は勇躍すべきである。写される人に押されては、ろくな写真は出来ない。写される人が「あなたまかせ」の心境になるまで、押し切らなければ駄目だ。気力第一である。

『死ぬことと生きること』土門拳  1974 築地書館

土門拳がここで見出そうとしているのは、おそらく契約の上でいかに非演出を体現するかということだろう。
 今回小池貴之さんの写真を見て、この絶対非演出について改めて考えてみた。絶対非演出の写真を撮るには、被写体とコミュニケーションをとらない「ゼロ」の方法と、より深くコミュニケーションをとり、人としての信頼を築く方法がある。非演出の写真を生み出す方法が、これほどまでにも両極端なのは非常に興味深い。


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