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いよいよカメラが体の一部になってきた

 前回の投稿からしばらく時間が空いてしまった。というのも今年度で大学も卒業ということで、卒業論文の執筆に追われていたからである。先日やっと提出が完了して時間ができたので、最近の自分の中の写真感をまとめてみる。

 11/9に『通学経路で写真を撮り続けるのは難しいなと感じる今日この頃』というタイトルで、慣れに慣れた通学経路で毎日カメラを首からぶら下げて、アンテナをはりながら被写体を探し、それを撮ることの難しさについて触れた。この通学スナップを3ヶ月続けた結果、いよいよカメラが体の一部になってきたと感じる。通学スナップを始めた当初は「日常の中に潜む微かな変化を探し出し、それを撮ろう」と、とにかく被写体を探し出すことに意識を向けていた。しかし、写真を撮るにつれて、結局は自分が「あっ」と思ったものに対してシャッターを切り、写真にしているだけだということに気がついた。日常の中で「あっ、かわいいな」、「あっ、かっこいいな」、「あっ、不思議だな」、「あっ、温かい雰囲気だな」等々と感じることはあっても、それは数秒も経てばフワッと消えていくし、そんなことは多々あるので基本スルーしがちだ。けれどカメラを常に首からぶら下げておくことで、その半ば反射的な思考に、シャッターを切るという動作で応えることができる。これぞまさにカメラが体の一部になった感覚である。何かに対して「あっ」と感じることは生得的で、カメラの有無には関係ない。この生得的なものを撮影動機にすることで、被写体を探すということから脱却できるようになる。そうするとカメラと自分さえいればどんな街でも、どんな状況でも写真が撮れる気がしてくるし、「被写体らしさ」を求めなくて済む。
 過去に投稿した記事の中で『眼の狩人-戦後写真家たちが描いた軌跡-』(大竹昭子 1994 新潮社)を紹介したが、その本の中の写真家 奈良原一高の言葉を今回は引用させていただく。

気になる対象やテーマが現れたとき、それをとらえるためにカメラを握るのであり、写真を撮るために被写体を探すことはなかった。

『眼の狩人-戦後写真家たちが描いた軌跡-』(大竹昭子 1994 新潮社)

この言葉の意味が当初自分の中ではうまく飲み込めなかった。なぜなら自分は被写体を探して、どこかに撮りに行くという行為が主体であったからだ。もちろんそういう行為も写真の醍醐味の一つではあるが、そればかりに頼りすぎると撮影に行く・行ける機会がないと写真を撮れないことになってしまい、カメラが家でお留守番をすることになってしまう。冒頭で記したようにここ最近は大学の方が忙しく、どこかに撮りに行くという機会はほとんど無かった。しかし、この状況でなお写真を撮り続けることができたのは、通学スナップを通じてカメラの有無に左右されない自身の生得的な感情を撮影動機にすることができたからであろう。今なら奈良原一高の言葉も理解できるような気がする。
 写真を趣味とするものにおいて、その撮影動機は様々あった方が良いと思う。どれがダメとか優れているとかではなく、引き出しが多ければより写真を楽しめるのではないかと思うのだ。


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