今ある幸せ
Xで瞼の手術に失敗して自ら命を絶った人のpostを見た。これまでの投稿をさかのぼると、術後の後遺症と見た目に悩み、手術しなければ失わずに済んだ数々の希望を思い、絶望している様子がありありと伝わってきた。後遺症の神経痛が痛むたび、自分の顔を見るたび、手術したことの後悔が身もだえするほど湧いてくる。手術をする前の自分に戻れたら、と過去を修正しようとする。そのたびに執刀医、そして何より手術を受けてしまった自分を恨み続ける。そんな日々を送っていたのだろうと、想像してとてもつらい気持ちになった。過去の選択に後悔し、そうでない道を選んだ希望ある未来を想像し、誤った道を選んでしまった自分を恨み続ける苦しみ。これほど苦しいことはないと思う。誰か、とりわけ自分を恨みながら生きるのは、苦しい。
「きっと絶望って、ありえたかもしれない希望のことを言うのだと思います。」という坂元裕二のセリフを思い出した。
この人がなぜ手術をしたのかは分からないが、一連の出来事の背景にはルッキズムの影響が少なからずあると思う。ルッキズムとは外見重視主義のことで、あまりきちんと理解していないが、少し前からこのことを考えている。なぜなら、私は自分がルッキズム主義者(ルッキスト)だと思うからだ。
私は、容姿に恵まれている。最近、その恩恵を受けることが多い。初対面の人にも、にこりと笑いかければだいたい好印象を持ってもらえる。会社の先輩や上司、同期にもそうやって好印象を持ってもらえて、今でも優しくしてもらえる。多少突飛なことをしても許される。(と思っている。)そうやって自分の容姿におごり高ぶる自分がいる。そうあってはいけない、見た目だけで評価されないよう、人間性や能力を磨かなければ。自分が努力して作り上げたもので評価してもらえなければ、と思う。でも、そう思えるのは、自分の容姿で得た「優しさ」の上に立っているからで、それがなくなれば、すなわち自分の容姿が変わってしまえば、自分の足場はいとも簡単に崩れるだろう、と不安だ。私は、今の自分の容姿に依存しているのだ。なんの努力もせずに手に入れた容姿は、いつかなくなるだろう、そして、なくなったときにもう一度手に入れる手段を私は持ち合わせていない。命を絶った彼女は、いつかの私なのかもしれない、と思う。だからさっき見たpostが忘れられない。
見た目に依存するのは、見た目の良さに恩恵を受けている人で、そうした人ほど自分の容姿が変わってしまうことに弱いのではないか。ルッキズムは、容姿に恵まれた人を弱体化させる作用があるのではないか。容姿に恵まれた人ほど、ルッキズムに囚われているのではないか。
今ある幸せは、すべて僥倖で、それにすがって生きている。失くしたら、取り戻すこと、もしくはほかの何かで代替する術を知らない。だからなくなってしまったときのことを思うと不安で仕方なくなる。自分の手でつかんだり作ったりしたものだけを頼りに、その他はたまたまあってラッキー、という感覚でいることが、生きる術なのでは、と思う。他方で、自分でつかめるものは限られていて、なにかのおかげで、縁があって掴んだものもあると思う、いずれにしても、最終的に自分で手にしたものを決して自分では離さずに、そのものが離れていくまで頼りに生きていこうと思う。離さない、ということが私にとってはとても難しいことだ。
会社に入ってから、「若くてかわいい新入社員」であることがこんなにも特権なのか、と思う。人の視線が気になって仕方ない。人からの好意に勝手に色を感じて疎ましく思ったり、それが純然たる好意だったと知って恥ずかしくなったり、さみしくなったりしている。人から受ける感情を過剰に意識して、右往左往している。
「若くてかわいい新入社員」という幾重にも積み上げられた下駄は、少しずつ脱がされていく。「新入社員」から、「若い」「かわいい」の順に。自分で手に入れていない下駄は簡単に脱がされるが、高いところから下がっていくことほど苦痛なことはない。だからそれに代わる下駄を必死にかき集めている。