森山直太朗が歌う「君」になりたかった。
ずっと、森山直太朗が歌う「君」になりたかった。
「君」として、誰かから見つめてもらいたかった。
だから、森山直太朗のライブに行くと、そうでない現状に、自分の心に穴があることに気づかされて、どうしようもなくさみしくなって帰路に着いていた。そうなると思ったから、両国国技館のライブには行かなかった。今日はそのライブのドキュメンタリー映画『素晴らしい世界は何処に』を見た。さっき見終わって浦和駅近くの日高屋でこれを書いている。(この物価高のなか、中華そばと餃子6個セットが670円であることに驚いて思わず頼んでしまったが、他のお客さんに運ばれてくる餃子のボリュームに恐れ慄いている。)
映画はドキュメンタリーといってもライブの舞台裏ではなく、あくまで国技館のライブ映像がメインで、その合間に昨年度行われた「素晴らしい世界」100本ツアーのロードムービーや心象風景のような映像が差し込まれている作品だった。とても素晴らしかった。上映直後、このライブに行かなかったことを後悔した。この瞬間をその場で見ることができたら、どんなに感動したかと思った。それくらい、これまで見た森山直太朗のライブとは一線を画すものだった。
なにより1番驚いているのは、かつてのあのさみしさを、今は全く感じていないということだ。
そのかわり、あのとき明らかになった心の穴を埋める思い出たちが一斉にフラッシュバックしていた。そこにいる恋人の瞳は、ずっとなりたかった「君」として私を見つめていた。そのことがたまらなく嬉しい。これまで、喜怒哀楽の「怒」と「哀」しか文章にできないと思っていたから、「嬉」で文章を書いていることにも驚いている。
今、かつてのさみしさの代わりに喜びを、形の変わったさみしさを、そして大いなる不安を抱えている。私を支配していた1つの感情は3つの感情に姿を変えていま心を作っている。
(さみしさというのは形を変えていつまでも私のそばにいるのだなと甚だ関心する。)
森山直太朗はこの映画の中で、「素晴らしい世界はどこにもないという絶望と、素晴らしい世界をもう探さなくても良いという安堵感に気づいた。」と語った。『素晴らしい世界』という楽曲では、「我が身の中に」と歌っていて、それを信じて生きてきたし、私が恋人と見ている世界はまさしく素晴らしい世界だと思っていたから、それがないと言われたことがだいぶショックだった。でも、よくよく考えてみると、「どこにもない」というのは、「世界」という部分にかかっているのではないか、と思う。
素晴らしい世界は何処に、という問いの答えが、これだと思ってもその先に別の答えが見えて、それこそが、と思って辿り着くと、また別の答えが見える、とも森山直太朗は語った。私は森山直太朗がその時探していた答えとは、私たちが安住して暮らせる、大地と水があるような「世界」であって、その世界が常に素晴らしい状態であることなのではと思う。こう書いていると何を当たり前のことを、とも思うが、ここで1番言いたいのは、「素晴らしい世界はどこにもない」というのは「素晴らしい状態が常に安定してることはない」と言い換えられるのでは、と言うことだ。もしそうだとすれば、私は深く納得する。「素晴らしい世界」は我が身の中にあると言い聞かせていたが、冷静に考えるとこんな小さくて不安定な身体の中に大地と水があるようながっしりとした世界なるものがあるとは言い難い。また、仕事していて最高!と思う瞬間も、それは祭りのように跡形もなく消え去っていく。記憶には残るが、いつまでもあり続けるものではないし、記憶にしたって後から形が変わったり薄れたりしていく。私たちが持ちうるのは、あくまで素晴らしい瞬間なのであって、それは世界といえるほど安定したものではない。
恋人との世界は、その最たるものだろうと思う。
恋人ができてから、新しい寂しさと不安を獲得した。『boku』という楽曲で、それが良く描かれている。
「今日が二人の最後の日だって何も不思議じゃない」
「現にあなたとこうして生きている限りはリアルなお題」
「いつもどこでも一緒に居たってどこか気が気じゃない」
「単にあなたを信じられんという訳ではない」
これまで普通だったひとりの時間が恋人と会えない時間に名前を変えた。好きな人とと一緒にいることが普通になり、いままで感じていた「不在」に輪郭がついてしまった。それ故のさみしさ。
別れた恋人と思う歌を聞くたびに感じる、そんなにも好きだった人とも別れてしまうような試練や感情の変化がこれから起こるのだろうか、という恐れ。
ただでさえ不安定な自分の生活が他者という変数が追加されることでさらに予測不能になるのことへの混乱。
恋人とともに過ごす「素晴らしい世界」は、こんなにも不安定な感情の上に成り立つ、あくまで瞬間の出来事である。やはり、素晴らしい世界はどこにもないのだ。
ここで、「素晴らしい世界をもう探さなくても良いという安堵感」という言葉に立ち返る。素晴らしい世界はどこにもないが、瞬間としては存在する。その瞬間を再び味わうために、私たちはもがき苦しみ生きている。私たちは素晴らしい世界というゴールを目指しているのではなく、その場その場に転がっている素晴らしい瞬間を集めてただただ歩いているだけなのだ。その気づきは、「素晴らしい世界にたどり着けなかった人生」にはなり得ない、ということでもある。このことに、私はひどく安堵した。森山直太朗の言葉その通りである。
仕事を始めたり、恋人ができたり、さまざまな出来事で私の感情は変わり続ける。そのたびに素晴らしい瞬間や醜悪な出来事を拾っていくのだろう。何に向かうわけもなく、そうして歩いていくのだろう。とりあえず今は、この手に転がり込んできた素晴らしい瞬間をこぼさないように大事に抱えていこうと思う。
さっき頼んだラーメンと餃子はたやすく平らげてしまった。最近こんな生活を繰り返しているから体はすっかり緩んでいる。このままでは恋人との素晴らしい瞬間をこぼしかねないので、今日は最寄り駅から歩いて帰ることにする。