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忘れえぬ記憶 note創作大賞2024(恋愛小説部門)


▼あらすじ


大きな手術をしてから、週に1度、病院で謎のカウンセリングを受けている相川雅(38)。そのカウンセリングの中で雅は高校時代に、古本屋で出会った、同級生の成瀬佳との淡く甘酸っぱい記憶を振り返る。彼は、大人っぽく人を寄せ付けず、いつも無表情で、クラスの中で特異な存在だった。しかし、古本屋で好きな本について語らう彼は年相応な少年だった。雅は”成瀬君”という少年の本当の姿をもっと知りたいと、彼に興味を持ち始める。そして、雅と彼は古本屋で、2人だけの時間を共有し、仲を深めていく。しかし、彼にはある秘密があった。そして、現代の雅は、ある大きな決断をしていたーーー。

▼本編

#2045年技術の特異点



私は、行きつけの病院で自分の名前が呼ばれるのを待っていた。
先月、大きな手術をした私は、それから週に一度カウンセリングに通っている。カウンセリングと言っても、毎週病院に来ては、自分の過去の思い出を医者に話すだけだ。
ただ、それだけのために週に一回病院に通うのは、とても面倒だった。
なぜ、大きな不調があるわけでもないのに、そのようなことをしなければならないのかは、よくわからない。
でも、それも今日で最後だ。少しの辛抱である。
「相川さん、相川雅さん」
少し遠くから、無機質な声が聞こえた。
二十代くらいの女性のような物が私の名前を呼んでいる。
その女性のような物に案内されて、いつも通っているカウンセリング室に入った。
「こんにちは」
ドアを開けると、座り心地の良さそうな黒い椅子に座っている先生がいた。
部屋全体は心が穏やかになるような淡い暖色で統一されている。
そして、私の心を落ち着かせるためか、先生はいつも和やかな優しい笑顔を崩さない。
「こんにちは。今日もよろしくお願いします」
どうぞ、と言われて先生の目の前にある椅子に腰かける。
今日は、スミレか…。
部屋には花瓶が置いてあるのだが、いつも生けている花の種類が違う。
今日は何の花だろうと…、それを見るのだけは毎週のささやかな楽しみだった。
「相川さんは、今日が最後のカウンセリングですね」
今日も何も問題が見られなければ、これで終わりになりますと、先生は手元の機械にメモをしている。
「じゃあ、いつも通りあなたの高校時代の話を思い浮かべながら出来るだけ具体的に、話してください」
「はい…」
私の高校時代。
今でも鮮明に思い出す。
あの時、起こった出来事、そして、抱いた感情を。
あの頃の私は、悩みなんて一つもなく、自分の感情だけを純粋に信じて生きることができていた。
まるで、自分の脳に一つの映像として保存しているかのように。

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#2025年古本屋の彼



高校二年の夏。
来年は受験生ということで塾に通い始めたが、まだ気持ちは勉強に向かず、夏の試合に向けた部活の練習で予定は埋まっていた。
そして部活がない日は、決まって、最寄りから電車で三駅ほどの街にある古本屋に通っていた。
そのこじんまりとした古本屋を見つけたのは、本当に偶然だった。
対戦相手の高校で練習試合をした帰りに、たまたま見つけたのだ。
その時は、試合の帰りで、汗だくな状態だったので寄ることはしなかったが、後日、自分のクローゼットの中で最も清楚な洋服を選んで、一人で向かった。
なんだか、少し入りづらくて、数十分ほど本屋の前を行き来した後、意を決し、足を踏み入れたのだ。あれは、勇気を振り絞った行為だった。
「こんばんは」
「お、また来たのか」
私は、夏休みの間に通いすぎて、古本屋のおじさんに名前と顔を覚えられていた。
おじさんはおそらく、六十代くらいだろう。
この本屋は代々受け継がれていて、おじさんで三代目らしい。
「ここ好きなんで」
私が、そう言うとおじさんは顔をクシャっとして、嬉しそうに笑い、「雅ちゃんは、上手いこと言うね、今日もゆっくりしていってね」と言いながら、レジの奥の方に戻っていった。
私は目的があってこの店に来るのではなく、店内を歩いて気なったものを手に取ってはパラパラとめくっている。
そして、心が惹かれた本を一冊買って帰る。
本との巡りあわせはロマンがあって好きだ。
そんな巡り合わせで出会った本が、自分史上最高の作品だったとき、「これは運命だ!」と毎度舞い上がる。
本の探索に夢中になり、気づけばかなりの時間が経っていた。
ふと、棚の向こう側に同い年くらいの少年の姿が見えた。
この本屋に訪れるのは、ほとんど年配の方ばかりなので珍しいと思いながら、気になってその少年を本棚越しに見つめていると、見覚えのある顔であることに気づいた。
その彼は、同じクラスの成瀬君だった。
同じクラスと言っても、委員会の連絡事項を伝えるために事務的な会話をしたことがあるだけで、友人と言うよりただのクラスメイトと言った方が良いかもしれない。
それにしても、知り合い程度の人に学校以外の場所で会うことほど気まずいことはない。
相手はこちらに気づいていないし、いつもの私なら見なかったふりをして無視するのだが、なぜか、今日はそれができなかった。
「成瀬君…?」
彼は、手に取っていた本からこちらに視線を上げる。
「あ……、相川さん?」
良かった。
一瞬、間があったので名前すら覚えられていないのかと思った。
彼は声をかけられたことに驚いているようだった。
お互いに名前を確認し合うように呼んだだけで、その後、話す言葉はなく、無言になる。
気まずい時間が流れ、私はなぜ声をかけてしまったのだろうかと、後悔し始めていた。
店の時計の針の音がチクタクと鳴るのがはっきり聞こえてくる。
私は、微妙な空気を取り払おうと
「成瀬君も、この店よく来るの?」
とひねり出して尋ねた。
「うん。俺の家はこの近くだから。相川さんもよく来るの?」
私が彼にした質問がオウム返しのように、そのまま返ってくる。
「うん。私は近くに住んでいるわけじゃないんだけど。ここの本屋が好きで。おじさんも優しいし」
ちょうどその時、奥に戻っていたおじさんが顔をのぞかせた。
「聞き覚えのある声だと思ったら、成瀬君じゃないか」
「あ、おじさん。こんばんは」
彼もこの店によく来る常連で、どうやらおじさんと顔見知りのようだ。
「何だい、二人は知り合いかい?」
その質問にどう答えるべきか少し迷ったが、クラスメイトだと答えると、
「そうか、そうか」
おじさんはどこか満足そうに笑っていた。
その日は、その後気になった本を見つけて、一冊買って帰った。
私が本屋を出る時には、もう外は暗くなっていたが、成瀬君はまだ店内で熱心に本を読んでいた。

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私が次にその本屋に行ったのは二週間後だった。
部活の夏の大会がかなり良いところまで進み、なかなか行く時間が取れなかったのだ。
結局、三回戦で負けてしまったのだが…。
強豪校とは言えない高校でよく頑張った方だと思う。
あの恋しい本屋に向かうため、蒸し暑い駅のホームから電車に乗った。
気持ちの良い冷気を感じる。
ずっと、電車に乗っていたいと思うほど夏の車内は快適だ。
しかし、電車から降りると一気に現実の暑さに戻る。
もう、すっかり八月になっていた。
「おじさん、久しぶり」
「おお、久しぶりだね。元気だったか?」
「うん。まあまあ。試合は負けちゃったけど」
「そうか…」
おじさんは、私よりも残念そうな顔をした。
ここに来ると必ずおじさんは顔を出して声をかけてくれる。
その時以外は、基本的には、レジの奥に続く部屋にいる。
レジの奥の部屋は、おじさんの家に繋がっているらしい。
そして、私はまたいつものように気になる本を探す。
探し始めてすぐに、一つの本が目に留まった。
『檸檬』という本だ。
なぜ、こんなにも、惹きつけられたのかわからない。
運命的に惹きつけられたのではなく、ただ異常に外が暑かったから、みずみずしさを感じる檸檬という文字に手を伸ばした。ただそれだけかもしれない。
その本を手に取って表紙を見ると、「梶井基次郎」という作家名が書いてあった。
この人…。
この人が書いた別の本をちょうど先々週この店で買ったばかりだ。
「それ、面白いよ。俺、その人の本好き」
突然、少し離れたところから声がして、その声の方を見ると、成瀬君がいた。
あまりに突然だったので、いたんだ…と驚いた。
「これ?」
「そう、それ」
「この作家の本、私も好きみたい。前この本屋に来たときも同じ作家の本を買ったの」
「何ていう小説?」
前回、流れた気まずい空気が嘘みたいに、会話のラリーが続く。
同じ趣味を持ち、同じ場所に通うという共通点を見つけたことによるものかもしれない。
「『桜の樹の下には』っていう小説」
「それ、良いよね。なんていうんだろう、生命の儚さと神秘さを感じるっていうか・・」
「うん、うん。すごい、わかる。やっぱ書き出しが衝撃だよね。桜に対してああいう視点からの見方もあるんだって。凡人には考えられない」
自分の好きな小説を読んだことがある人に出会ったことがなかった。
小中高運動部だった私には小説の話を一緒に楽しんでくれる友人がいなかった。
今みたいに、感想を共有したことがなかったので、嬉しさで胸が張り裂ける思いだった。
意気投合をし、話足りなかったので、帰り道、駅までの道のりを共に歩いた。
夏の蒸し暑さを忘れてしまうほど、私は彼との会話に夢中になっていた。
もっと、話したいこと沢山あるのに、駅に着いてしまう。
駅に到着しなければいいのになどと、蒸し暑くて汗も止まらないほどなのに、そんなことを思っていた。
しかし、私の願いは叶うはずもなく、あっけなく駅に到着し、ついには改札を通ってしまった。
「私、一番線だけど。成瀬君は?」
「俺は二番線だから、こっちだ」
「そっか…」
方向が同じだったら、まだ沢山話せたのに。
次に会えるのはいつだろう。
いや、前回も今回も偶然彼に会えただけで、あの本屋に行ったら必ず会えるという確証はないのだ。そもそも、次なんてあるのだろうか?
学校では会えるけれど、二人で話せるような関係ではないし。
この成瀬君と話せるのは今日が最後かもしれない。
そもそも学校では話す機会なんてないし。
「今日は面白かったよ。また、今度」
「う、うん!」
一人で悶々と思考していた時、かけられら「また、今度」という言葉。
また、彼は社交辞令のつもりかもしれないが、私はその言葉を聞けたことが嬉しかった。
そして、私は調子に乗った。
「あの、ライン交換しない?また、話せたらいいな~なんて思ったりして…」
私は反応を伺うように彼の表情を見る。
「……うん、いいよ」
「え、いいの?」
「うん」
「ありがとう」
私は自分の小さな勇気が玉砕しなかったことに安堵し、早速スマホを取り出し彼のスマホに表示されたQRコードを読み取った。
新しく追加されたラインのアイコンを見て、仲間ができたという実感が湧いてきた。
「今度、成瀬君のお勧めの本教えてよ。私、君が好きな本読んでみたい」
「…」
彼が無言になってしまったので、一気に踏み込みすぎてしまった、と少したじろぐ。
実際、彼の表情に迷いの色が見えたからだ。
厚かましすぎただろうか。たった一日で距離を詰めすぎただろうか?
ラインの交換を承諾されて調子に乗ってしまった。
「あ、やっぱり何でも…」
「わかった。今度持ってくるよ」
そう言って私の目を見た彼は微笑んでいた。
…初めてだった。
彼がいつもの真顔に近い表情を崩した瞬間を。
崩したと言っても、ほんの少しだけれど。
私は、なんだか目を逸らせずその場で固まってしまった。
気づいたときには、二番線に電車が来て彼は走って階段を駆け下がって行ってしまっていた。
彼が先ほどまでいた場所、彼の残像を思い浮かべながら、成瀬君はどんな本が好きなのだろうと想像した。
自分の知っている世界が広がっていく。そんな予感がした。

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ラインで次の土曜日に会う約束をした。
成瀬君のラインの文面は無機質で、絵文字もスタンプも無駄なものは使わないし、(笑)などという記号を語尾に付けることもない。
今日起こった出来事が全て幻なのではないかと疑いそうになるほどに彼のメッセージは淡泊だった。
でも、正直、それは想像通りなのでショックは特に受けていない。
クラス替えしたばかりの頃は、成瀬君の端正な顔立ちと、明らかに教室で取っ組み合いをしているようなガキっぽい他の男子とは違う落ち着いた大人っぽい雰囲気の影響で、彼に好意を抱いている女子が多かった。
しかし、気づいたころには、彼に好意を抱いていた人たちはいなくなっていた。というよりも、諦めていったと言う方が正しいのかもしれない。
彼は人に興味を示さなかった。
聞いたところによると、どんなに話しかけても、無表情にあしらわれてしまうらしい。
クラスの男子とは一緒にいるのを見るが、本当に仲良くしているのは二・三人のような気がする。
同じクラスになって半年ほど経ったけれど、彼が表情を崩して笑う姿を見たことがなかった。無表情とまで言わないが、とにかく感情が人より少し乏しいのだろうと思っていた。
でも、今日の彼の表情は心なしか穏やかだった。
とにかく、この無機質なメッセージを送る彼も、熱く本について語っていた彼も、成瀬佳という一人の人間なのだ。
面白い…。
彼のこと、もっと知りたいと思いながら、私は眠りについた。
そして、約束した土曜日。
少し、緊張しながら本屋に足を踏み入れる。
こんなに緊張したのは、初めてここに来た時以来だ。
「こんにちは」
そう言って奥の方を覗くと、成瀬君はレジのカウンターを机代わりにしてコーヒーを飲んでいた。
「また、偶然。二人一緒になったね」
おじさんは、本棚の整理をしている。
「いや、今日は…、」
今日は偶然ではないことを言おうとした時
「今日は約束してたんです」
と先に成瀬君が言った。
「おお、そうかそうか。ここに通ってくれる二人が仲良くしてくれるならおじさんは嬉しいよ」
私は、とりあえずコーヒーを飲んでいる成瀬君の前に机を挟んで向かい合うように座った。目の前に座るのは恥ずかしかったので、彼の斜め前に椅子の位置をずらす。
「相川さんも飲む?おじさんの家のコーヒー美味しいよ」
「私、苦いもの飲めないんだよね。ごめん」
そう言って断ると彼はそっかと寂しそうに呟いた。
少し落ち込んでいるようにも見える。
せっかく勧めてくれたのだから、飲めないけれど、頂いた方が良かっただろうか。
「紅茶とかは飲める?」
「う、うん。それなら」
そう私が言うと、成瀬君は「紅茶ってどこにあったけ?」とおじさんに聞き、レジの奥の部屋へ入っていった。
「え?」
そこはおじさんの家。
つまりはプライベートな空間だったので、驚いた。
「あの扉の奥って、おじさんの家じゃないんですか?成瀬君、普通に入っていきましたけど」
「あいつは、もう実の孫みたいなものだからねえ。五歳くらいの時から、よくここで時間つぶしに来てたから」
「五歳の時から、ですか?」
成瀬くんにとって、ここはもう自分の家のような場所なのかもしれない。
それにしても、五歳にしてこの本屋に通っていたとは…。
今の成瀬君が周りより大人びているのも納得だ。
そんな彼は紅茶を入れて戻って来た。
「はい、紅茶。じいちゃんの家にあるものは全部一流品だから美味しい」
「ええ、そうなんだ。ありがとう」
「あと、早速だけど、これ」
彼は机に本を置いた。
「お、きたきた」と私は心の中で待ちわびていた。
どんな本を持ってきてれたのだろう。
これを楽しみにしていたのだ。
彼が手にしていた本のタイトルは
『失われた時を求めて』
だった。
私はその机に置かれた本を受けとる。
「それ、全部で十四冊ある長編だから、普通なら人に軽々しく勧めるようなものじゃないんだけど、前に相川さんが話してた好みに合うと思ったから」
「私が好きそうなやつを選んでくれたの?ありがとう」
自分のことを考えて選んでくれたなら、なお嬉しかった。
それにしても、十四冊に渡る長編なんて、自分では手を出さないだろう。
人に勧められないとなかなか読む気になれない。とても良い機会だと思った。
それに、十四冊あるということは最低でも十四回、成瀬君に会えるということだ。
「相川さんも何かおすすめあったら教えて」
「え?」
「俺も知りたい。相川さんが好きなもの」
彼はそう言った後、コーヒーを一口飲んだ。
少し照れているように見えた。
「いいの?読んでくれるの?」
「うん」
「わかった。今度持ってくるね」
彼が少しでも私に興味を示してくれたことがわかって、なんだか安心した。
その日以降、三日に一回のペースで成瀬君と会うようになった。
本屋で待ち合わせをしては、一日本について語り合ったりする日もあれば、お互いに一緒にいるだけで、別々の本を読んでいるだけの日もあった。
そんな日々が私の生活の一部になっていた。
部活、部活、本屋という生活を送る日々。
夏の試合に負けたからといって、部活がなくなるわけではない。
私はバスケが好きだけれど、私の高校生活の全てを注ぎたいと思っているわけではない。何かしらの部活に属して、クラス以外にも居場所を作るべきだと思ったのだ。
それなら、中学時代にバスケをやっていたし、バスケ部にしようくらいの気持ちだった。
それは私以外の部員もきっとそうだろう。
勝ちたいし、負けたら悔しいけれど、でも自分たちがインターハイ優勝できるとは思ってはいない。
本気で目指しているのであれば、今の高校にはいない。
ある程度、偏差値の高い公立の高校はどこもそういう感じな気がする。
ただ、いくらスパルタ練習ではないと言っても、夏の蒸し暑い体育館で走り回ることはきつい。
熱中症対策のため設けられた三十分休憩の間に、私は外にある自動販売機に向かった。
迷わずスポドリのボタンを押す。
「マジ、最近練習きつくない?」
「ん?」
周りに誰もいないと思っていたので、突然声が聞こえてきたことに驚いた。
声をかけてきたのは、水道で水を飲んでいる同じクラスの明人だった。
彼は男バスでセンターのポジションを任されている。
「飲み物買わないの?」
ここに自販機があるというのに、なぜわざわざ水道の水を飲む必要があるのかと不思議に思った。
「ん?いや、もったいねえじゃん」
「そう?」
「塵も積もればだよ」
そう言って、彼は赤くなった顔を冷ますため、豪快に水で顔を洗い始めた。
そんな彼を見て、ふと思い出した。
「そういえばさ、明人って、成瀬君と仲良いよね?」
「仲良いというか、幼馴染だけど。それがどうしたの?」
成瀬君とあの本屋で出会うまで、そこまで意識していなかったけれど、明人はいつも成瀬君と一緒にいる。
きっと成瀬君が心を許している数少ないクラスメイトのうちの一人なのだろうと思った。それに、心なしか、明人と一緒にいる時の成瀬君は表情が柔らかく見える。
私と話している時よりもだ…。
「あのさ。成瀬君ってどんな人?」
理由を邪推されるのも嫌だったので、別に興味があるわけではないけど、なんとなく思いつきで話している様子を装った。
しかし、それには無理があったようだ。
彼は顔をタオルで拭いてこちらを見ながら
「お前、成瀬のこと好きなの?」
と放った。
予想してもいなかった方向に話が振られて困惑した。
「え?」
「いや、俺にそういうこと聞いてくる女子ってだいたいあいつのこと気になってるやつばっかりだからさ」
「違うよ。そういう意味じゃなくて。成瀬君って、あんまりクラスじゃ目立たないようにしてるでしょ。だから実際はどんな人なのかなって気になったの。それだけ」
彼は少しずつ、私の前でも素を見せてくれるようになった。
しかし、まだ私が知っているのは彼の一部だけで、彼の中にはまだ私の知らない彼がいる気がするのだ。
「ごまかすなって。別に本人に言わないから」
「だから、違うって」
私は慌てて否定をする。
「でも、あいつはやめとけ。あいつのこと好きになっても、お前が傷つくだけだから」
「え、どういうこと?」
「………雅も知ってるだろ。クラス替えしてすぐの頃、成瀬のこと気になっていた女子たち全員相手にされなかったじゃねえか。雅にとって高嶺の花すぎるだろってことだよ」
「なにそれ。なんか私、けなされてる?」
彼は「まあ、そういうことだから、諦めろ」と勘違いしたまま体育館に戻って行ってしまった。
先程の明人は、一瞬困惑し、慎重に言葉を選んでいるように見えた。
口にしてはいけない何かがあるような。
私は、成瀬君のことを異性として、好きなわけではない。
でも、気になるのだ。
彼を囲むヴェールの中には何があるのか知りたいと思ってしまう。
それほど、彼には人を惹きつけるものがあった。

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私が六冊目の『失われた時を求めて』借りた日、ある場所へ誘われた。
その日は夏休みの最後の週が始まり、私たちの夏が終わりを告げ始めた時だった。
「相川さん、夏休み最後の日空いてる?」
いつも通り、私の前でコーヒーを飲んでいた成瀬君が言った。
「空いてるよ。もう課題も全部済ませてるし・・。何、どっか出掛けるの?」
冗談のつもりだった。
どうせ、その日もまたここで会おうと言われるのだろうと思っていた。
「出掛けよう。一日、空いてるなら付き合ってほしいところがある」
「え、うん…わかった…」
「あ、ごめん。強引に決めて…。相川さんが気乗りしないなら別に…」
驚きのあまり言い淀んでしまったのが、成瀬君を勘違いさせてしまったのだろう。
「ううん、行きたい!」
私は今度こそ、思いっきり頷いた。
「ところで、どこ行くの?」
「駒場公園に気になる本屋があるんだ。ずっと行ってみたいと思っていて」
そして約束をしたその数日後、私は東大前駅にいた。
そこが集合場所だった。
昨日、というより今日。全然眠れなかった。
まるで遠足が楽しみで寝付けない小学生のようだった。
こんなに浮ついた気持ちになったのは何年ぶりだろう。
成瀬君が行きたい本屋ってどんな本屋なんだろう。明日、どんなこと話そうかな。また新しい成瀬君の一面が見つかるかもしれないなどと思うと胸のドキドキが止まらなくて、すっかり目が冴えてしまったのだ。
羊を数えても眠れるわけがなく、私はスマホで「寝たいのに、眠れない時」などと調べて、そのサイトに書いてある通り実践し、何とか眠りについた。
余裕を持って起きるつもりだったのだが、眠りについた時間が遅かったせいか、予定時刻より起きるのが遅れた。
化粧を少しして、くせ毛だから面倒に思い、いつも結んでいる髪の毛は下ろしてストレートアイロンで伸ばした。
普段、本屋で会っているときは、ドすっぴんで服装にも気を遣っていないので今更かもしれないが、お出かけとなれば事情は別だ。
改札を出て、見慣れない風景を見渡すと、柱に寄りかかって本を読んでいる成瀬君を見つけた。
私はバレないように近寄って、
「おはよう」
と後ろから彼の肩を叩きながら言った。
彼は想像以上に驚いていた。
驚きのあまり数歩私から遠ざかった。
「ごめん、そんなに驚くと思わなくて」
「あ、いや、こっちこそ。ごめん…。まだ集合の十分前だから着いてると思わなくて」
彼は珍しく、焦りを露にしていた。
何かごまかそうとしているように見えたけれど、それが何かはわからなかった。
「まあ、いいよ。そんなことより、早く行こう。どっちの道向かえばいいの?」
改札を出た先は左右に道が広がっていた。
「こっち。ついてきて」
そう言って彼は歩き出す。私も隣に並んだ。
隣に並んでいるけれど、この少し広く開けられた距離がもどかしい。
彼の手にはスマホが握られている。グーグルマップをちらちら見ている。
「駅から徒歩7分なんでしょ?なんとなく勘で行けば着くんじゃない?」
「いや、グーグルマップあった方が確実だから」
「そういうもん?」
「相川さんって、そういうところあるよね」
「え?」
「良い意味で適当ってこと。自由人」
「何?私のことそういう人だと思ってるの?」
「うん」
彼は私の目を見て頷いた。
「ふ~ん、そっかそっか。」
全く嬉しくない。
良い意味でって言われたけど、良い意味で適当ってどういうことだ。
それは褒めてることになるのか。
私がわかりやすく不満の色を声に滲ませると彼は
「そういう感情豊かなところも含めて、相川さんは面白い人だよ」
と言った。
うん。今のはなんとなく褒められているような気がした。
「そう。それならいいけど」
我ながら単純だ。
それから少し歩いて、彼が急に立ち止まった。
「どうしたの?」
「いや、ここがゴールなはずなんだけど、本屋が見当たらなくて」
「あ~、そういうのよくあるよね。ちょっとずれてること」
確かに辺りには本屋らしきものが見当たらない。
「あの道を進んでみよう。なんか向こうにある気がする」
行こうと言って、私は先を進んだ。
「ちょっと、待って」と言われたけれど、気にせずに道に入り込んだ。
案の定、進んでみるとすぐに本屋らしきものが見えてきた。
「ほら、ここじゃない?」
「うん。ここだ」
私は誇らしげな顔をしながら
「成瀬君って、そういうところあるよね」
と言い返した。
そういうところとは?というような表情をしていたので
「慎重だけど、意外に抜けてるところ」
と答えてあげた。
「そうかな」
彼は何だかこの会話を楽しんでいるように見えた。
そして、成瀬君がドアを開けてその本屋に入る。
私はその本屋の内装を一目見て、驚いた。
思わず、すごいと口に出してしまった。
今にも倒れてきそうなほどの高さのある本棚に本がいっぱいに敷き詰められている。
そして、本棚だけでなく机や椅子が多く並んでいることに気づいた。
「ここって飲食できるの?」
「うん。カフェにもなってるみたい」
私と成瀬君は案内されて席に座る。
窓側の席に案内された。
外にはテラス席もあり、日の光を浴びながら気持ちよさそうに本を読んでいる人がいる。
「この空間なんだか、落ち着いていて、すごく好き」
「俺も」
机に置いてあるメニューを見ると、興味深いものが沢山あった。
ハードボイルド・ワンダーランドの朝食セット、レバーパテトーストサンドイッチ、三角地帯のチーズケーキ、そして、檸檬パフェ。
文学の中に実際に出てくる食事や文学をモチーフにしているメニューが並んでいる。
「ねえ、すごいよ。これ」
私は、メニューを指さして成瀬君に見せる。
しかし、成瀬君は驚いていない。
「もしかして、知ってた?」
「うん」
「もしかして、これが一番の目的だったりする?」
「そうだけど。意外?」
「うん、意外」
成瀬君の違う側面が見れて嬉しかった。
そして、私はレバーパテトーストサンドイッチと檸檬パフェ、成瀬くんはハードボイルド・ワンダーランドの朝食セットと檸檬パフェを注文した。
「相川さんは、絶対檸檬パフェ頼むと思った」
「うん、好きだから。梶井基次郎の檸檬がモチーフだなんて、テンション上がるね」
私がそう言うと呆れながらも少し笑って同意してくれた。
「今までさ、好きな本見つけても、気になる場所を見つけても、自分一人で楽しむだけだった。だけど、最近誰かと分かち合うことの楽しさを知れた気がする。ありがとう」
改めて、言われた「ありがとう」という言葉。なんだか、心がくすぐったくなった。
「わかった。じゃあ、これからも私は成瀬くんの仲間でいてあげる」
「なんだよ、それ」
私の照れ隠しの冗談に対して、彼は初めて心の底から笑ったような、眩しい笑顔を見せたのだった。

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まるで夢のように、風が一瞬で吹き抜けるように過ぎ去った夏休みは終わり、いよいよ学校が再開した。
私の学校生活に大きな変化はなかった。
登校して、つまらない授業を聞いて、休み時間は女友達と芸能人が結婚した話とかして、部活をして帰宅。
成瀬君とは夏休み前と同様、学校で会話することはない。
彼は彼の友達と私は私の友達とお互い交わることのない空間で過ごしている。
ただ、変わったことといえば、つまらない授業の時は眠るのではなく、先生に見えない角度で『失われた時を求めて』を読むことだった。
それが、彼と過ごした夏休みが存在したことを証明するものだった。
そして、週末は本屋で会う日々が続いた。
こんな頻度で会っているのに学校では全く喋らないなんて、なんだか変な感じ。
でも、二人の秘密みたいでどこかワクワクしていたのも事実だった。
誰にも知れられてはいけない共同結社みたいな感じで面白い。
そんな日々が続き、とうとう冬が訪れた。
今日は雪が降っている。
積もることなく、パラパラと降り、地面に溶けていく。
今日は金曜日で放課後にあの本屋で会うことになっている。
私は委員会があったので少し遅れて向かうことになっていた。
下駄箱まで来たとき、私はある大事なものを忘れていることに気づいた。
「本、置きっぱなしだ」
『失われた時を求めて』の十四巻を机の中に入れっぱなしにしていたのだ。
私は急いで階段を駆け上がり、教室へ戻る。
誰もいないと思って教室のドアを勢いよく開けると、そこに明人がいた。
彼はドアの音に驚いてビクッと顔を上げる。
「あ、ごめん」
「いや、大丈夫だけど」
彼は日誌を必死に書いていた。
きっと今日一日放置していたせいで、放課後にまとめて書くことになったのだろう。
「あ、なんか忘れもの?」
「そう。大事な本を忘れて」
私は急いで自分の机に向かい『失われた時を求めて』を取り出した。
「それあいつも好きなやつ…」
「え?」
「あ、いや。成瀬がそれを好んでよく読んでたから」
「へ~、そうなんだ…」
以前、変に成瀬君の話を明人にしてしまったので、素直に「成瀬君に借りた」と言うことができなかった。
やましいことは何もないし、隠す必要もないのだけれど。
それでも、二人の秘密の共同体の存在を明かすようで、言いたくなかったのだ。
しかし、私が今手にしている本と成瀬君を結び付けられないほど明人は鈍感ではなかった。
「もしかして、それ成瀬の?」
このように聞かれてしまっては、さすがに嘘をつくことはできない。
「まあ、うん」
「えっ、そっか…」
彼は自分で聞いておきながら、信じられないという顔をしている。
「ほんと?」
「ほんとだけど…」
「あ、いや~。あいつ女子と仲良くすることなんてないと思ってたから…」
「私と成瀬君は読書っていう趣味が同じだったから、それでたまたま会話が弾んで、貸してくれるってなっただけで」
「それでも、あいつは」
「ん?」
「いや、何でもない。そんなことより、お前急いでたんだよな。引き留めてごめん、ほら行った行った」
いったい、はっきりしない何か言いたげな態度は何だったのだろう。
私と成瀬君が仲良くしていることはそれほどに驚くようなことなのだろうか。
半ば強引に話を引き上げられ、追い払われてしまったため、彼が何を思っていたのか聞けなかった。
しかし、そのことが気にかかったのはその一瞬だけで、私はすぐに成瀬君が待っている本屋に気持ちが向かっていた。
駅に降りると、凍える寒さのあまり私は両手を合わせてさすった。
電車の中は暖房がきいて、暖かかったが、その分、外に出ると冷たい風を肌に感じる。
ずっと電車に乗っていたいほどだが、そんなわけにもいかない。
改札を通り、駆け足であの本屋に向かうと、成瀬君は優雅にコーヒーを飲んでいた。
この寒さの中だからか、温かいコーヒーが美味しそうに見える。
「成瀬君、ごめん。遅れて」
「ん。お疲れ」
いつもの私の特等席に座る。
成瀬君の斜め前の席だ。
「これ、ありがとう。これで全部読み終えた」
私は『失われた時を求めて』を机の上に置いて差し出す。
「どうだった?」
「正直、最初の方は退屈だったけど・・・」
「退屈だったんだ」
「最初はね??」
「俺も、最初は退屈だった」
「でも、最後まで読むと伏線が回収されていって読むのが止まらなくなった」
彼のおすすめを信じて読み続けてよかった。
「なら、よかった」
彼は安心したように、柔らかい表情で笑った。
「ねえ、また新しくおすすめの本教えてよ」
彼に借りた本を読んで、感想を言って返すというやり取りを、これっきりにしたくなかった。
「今度はどういうのがいい?」
彼も乗り気なようだ。
「う~ん。今度は成瀬君が一番好きなもの教えて。これは私が好きそうなものを選んできてくれたわけでしょ?だから、今度は君が一番好きなもの」
「いいけど…。相川さんが気に入るかどうかわからないよ」
どこか自信がなさそうだってけれど、それがいいと私が押し切った。
「結構楽しみだな~。成瀬くんがどんなチョイスしてくるか。早く読みたい」
「じゃあ、今から家戻って持ってこようか?」
「え?」
「ここから一駅だし」
「それは悪いよ、大変だろうし」
「そう?」
「うん。あ、じゃあ帰るときに成瀬君の家に寄ってもいい?」
「え?」
「そしたら、成瀬君も無駄な労力使わなくていいし・・・」
「でも、相川さん、俺と電車逆方向だよね」
「そうだけど、いいの。私が早く読みたいだけだから」
「まあ、相川さんがいいなら・・・・」
「いいの?ありがとう。」
成瀬君は私のおこがましい提案も承諾してくれた。
私が強くお願いしたから、断れなかったのかもしれない。
強引に成瀬君の了承を得るような形になった。
時刻は、六時を指していて、雪が降っていることもあり外は暗くなっていた。
いつもは違う方向の電車に乗っているが、今日は一番線の電車に二人で乗り込む。
成瀬君の家は駅から徒歩五分ほどのところにあった。
玄関前で待っていようかと思ったが、雪が降っているし寒いだろうからと中に案内された。
雪は降り積もり始めていた。
「お邪魔します…」
成瀬君は部屋の明かりをつけて、長い廊下を歩いていく。
私は取り敢えず、その彼の後ろをついていくことにした。
小説を読みたい感情に任せて勢いで家に来てしまったので、当然そんな準備をする時間などなかったのだが、ご両親に渡すお菓子とか持ってこなかったのは良くなかったかもしれない。
今になって少し後悔し始めていた。
成瀬君が開けた部屋に入ると、大きな本棚がいくつかあった。
「すごい・・・・」
本好きなら一度は憧れたことがあるような部屋だった。
まるで、一つの本屋みたいだ。
自分のためだけの空間。
本のにおいがする。
私の好きなにおい。
私が部屋に感動している間、成瀬君は小説を探していた。
こんなに本があったら、目的のものを見つけるのも一苦労だろう。
「ところで、今日ご両親はいないの?」
「なんで?」
「え、挨拶した方がいいかなと思って」
「どっちもいないから、大丈夫」
「あ、そっか…」
確かに、この家に入ったときから、家の明かりは点いておらず誰かがいる気配はなかった。
両親の話を切り出してから、なんだか空気が重くなった。
あまり触れてほしくないのかと思い、話題を切り替えようとしたとき、成瀬君がボソッと呟いた。
「親は小さい時に離婚して、母さんと二人暮らしなんだ。それで、母さんは、今入院してるから家にいない」
「そうだったんだ…。ごめん、なんか言いたくないこと言わせちゃって」
知らなかった。
半年近く、あんなに成瀬君と話をしていたのに知らなかった。
いや、あたりまえかもしれない。
よく考えるとお互いに自分のことについては話さなかったような気がする。
本の話ばかりしていたから。
自然とそうなっていたような気がするが、もしかしたら彼は意図的に自分の話を避けていたのかもしれない。
「お母さんは、病気なの?」
「うん。精神的な病気」
そう言う彼はどこか寂し気だった。
大人っぽく見えていた彼の中に小さな少年の影が見えた。
まるで、巨大な迷路で迷って出口の見えなくなった小さな少年のような。
「どうしたの?」
思わず私は聞いてしまった。
彼は無言になる。
私は、彼のもとに徐々に歩み寄った。
「何かあるなら、話してみたら。ほら、人に話すと楽になることってあるじゃん。私、聞くよ。ね?」
そう言わずにはいられなかった。
なぜか、この違和感を見ないふりをしたら、彼はいつか壊れてしまうような気がした。
彼は私に話すべきか否か迷っているようだった
そして、彼は意を決したように深くため息をついて、話しはじめた。
「俺が十歳の時。あの日は、今日みたいに雪がすごく降っていて、帰ったら母さんに遊んでもらおうと思ってたんだ。でも、学校から帰ってきたら、母さんがいなくて。その時は、どっか出かけてるのかな~と思って、お腹を空かせながら一人で帰りを待ってた。だけど、来る日も来る日も帰ってこなかった。すごく心配したんだけど、でも一週間くらい経って、ふらっと帰ってきたんだ。俺はその時、すごく嬉しくて…、でも、戻ってきた母さんはまるで別人みたいだった。大きな変化はないけれど、何かが違った」
「何かが違う…?」
「うん。その何かは、母さんに抱きしめられた時にわかった。俺に触れる手が母親の手じゃなかったんだ。帰ってきてから母さんは俺に異様に執着し始めた。まるで、何かの代わりかのように。あの目は俺じゃない誰かを見ていた…。当時は漠然としかわからなかったけど、なんとなく理解した。母さんは男に捨てられて、心の穴を埋めるために俺の温もりを欲してた。それを頭で理解してから、女性に触れられることにも触ることにも嫌悪感を抱くようになった。あの雪の日から何かが変わったんだ。俺も、母さんも」
それから、精神的な病を抱えた母親は、手に負えなくなり、病院に入院することになった。お金の面は全て父親が負担してくれているから、一人でも不自由はないということだった。
彼は一通り話し終えて、この部屋にある小さな四角い窓を見つめた。
外に降る雪をじっと眺めている。雪は強くなるばかりだ。
「そうだったんだ…」
以前成瀬君を呼び止めるために彼の肩に手を置いた時、異様に驚かれたことがあったことを思いだした。
そんな事情があったなんて、全く想像できなかった。
それを隠して、相手に不快な思いをさせないようにするのは、相当に精神がすり減ることだと理解した。
私が彼に打ち明けるように促したくせに、かける言葉が見つからない。
何と励ましたら良いのかわからなかった。そもそも、励ましていいのか。
どんな言葉をかけても正解はないような気がした。
「恋愛感情を持ったことはある。それでも、触れることはできない。怖いから。自分を利用されているような気持ちになる」
そして、彼は明らかに無理した顔で笑った。
全てを聞き終えて、私は微かに震えていた。
家の中なのに、雪の中にいるように、身体が冷えていくのを感じる。
そんな私は彼をただ見つめることしかできなかった。
その後、彼は何事もなかったかのように「あった」と目的の本を見つけて、渡してくれた。
新しい本が手に入ったのに、彼の過去に衝撃を受けてそれどころではなかった。
その日以降、あの日の出来事がなかったかのように日常に戻った。
本屋で会って、語り合う日々。
いや、完全に以前のようには戻れなかった。
私はその日以降、彼と話しながらも、意識的に彼に触れないように、距離を取るようにした。だんだんと心の距離も離れていくような感じがした。
そして、本屋で会う関係も、お互い三年生になり受験勉強が本格的になったことで終わった。クラスも離れ、接点が全くなくなったのだ。
元から私たちを繋いでいるものはあの本屋しかなかったのだからしょうがない。
卒業した後、彼は京都の国立大学に進んだと噂で聞いたが、それ以来会うことはなかった。
あの半年間は私の人生の中で最も輝いて、自分らしく生きていた時間だったと思う。
彼の事が好きだったかと聞かれると好きだったと答えるだろう。
しかし、それは恋とかそういう淡いものではなく、仲間を見つけることができたという意味で。

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「そうですね。はい、良好です」
話を聞きながらメモを取っていた先生は、私が話し終えると同時に顔を上げた。
「じゃあ、相川さん。今日でカウンセリングは終わりです。また何かあったら気軽に来てくださいね」
「はい。ありがとうございました」
私が過去の思い出を話すことで、何を確かめているのか、何の効果があるのか結局最後までわからなかった。
まあ、そんなことはどうでもいい。
今の私はやっと終わったという解放感でいっぱいだった。
今日の夕飯は何にしようかな、なんてことを考えながら、ドアを開けてもう一度先生にお礼を言ってからカウンセリング室を後にした。

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#彼女は知らない医師の話



「あの患者さんは順調そうですね」
カルテのデータを確認しに来た看護師が先生に声をかける。
「うん。ちゃんと手術は成功したようだね」
「でも、脳を一部機械化して記憶を書き換えるなんて、やっぱり怖いです。しかも、自分の記憶を書き換えた手術をしたことも忘れちゃうなんて…。私はちょっと抵抗あります」
まだ看護師として勤務し始めて一年目の彼女はデータ内にあるカルテを処理している。
「元々、脳はホログラフィック装置といって機械みたいなものなんだ。私たちが今実体だと思って見てるこの世界も結局は脳が作り出した幻覚にすぎない。科学の技術で、脳が作りだした幻覚を作り変えているだけだから、たいした違いはないよ」
「それが2045年の技術の特異点の成果だと?」
「そういうことだ。過去に見た辛くて苦しい幻覚を消して、幸せな幻覚に置き換える。それだけだよ。君もすぐに慣れるさ」
先生は休憩の準備をし始める。
「じゃあ、私は休憩に入るから。何かあったら連絡して」
「わかりました」
部屋を出ようとした時、先生は何か急に思い出したように振り返った。
「あ、そこの花瓶に入っているそのマーガレットの花変えといてもらっていい?一か月間ずっとそのままだったから、枯れてしまって。」
そう言って、今度こそ彼は、昼休憩に向かった。

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#二十年ぶりの彼



診療室を出ると、先ほど私をこの部屋まで案内した女性らしき物が、私のことを察知するとこちらに向かってきた。
「相川さん。こちらが、今回の処方箋です」
「ありがとうございます」
「気を付けてお帰り下さい」
それは私に薬を渡したあと、仰々しく頭を下げた。
やはり、機械には違和感がある。
見た目も話し方もほとんど人間と変わらないのに、なぜだろうか。
私は、病院を出てすぐさま、寄り道をせずに駅に向かった。
暑いので早く家に帰ってエアコンの涼しさを全身で感じたい。
その一心で、日差しが照り付ける中、駅のホームで電車を待っていた。
やっとリニアトレインが来たその時、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「相川さん・・・」
振り返った先にいたのは、高校二年の日々を共有した成瀬君だった。
先ほどまで彼のことを話していたので、驚きよりも恥ずかしい気持ちが勝った。
そして、彼の姿を見た瞬間、締め付けられて息が少し苦しくなる。
けれど、それが何故なのかはわからなかった。
戸惑っている間に、発車合図のベルが鳴り始める。
無言の中、ベルの音だけがホームに響いている。
彼は、声をかけてみたものの、それ以降のことは考えていなかったようだ。
「とりあえず、乗ろうか」
そう言って彼は私の手を引いてモノレールに乗り込んだ。
手を掴んだ…。
その流れで、ドアに一番近い席にお互い腰を下ろす。
「久しぶり」
先ほどは、言葉が喉につっかえていたが、席に座って落ち着いたことで、なんとか一言発することができた。
「うん。久しぶり…」
「成瀬君。京都の大学に進学したんでしょ。なんで今は東京にいるの?」
私たちが大学進学したのは十二年も前のことなのに、そんな話は今更すぎる。
けれど、彼との時間は高校時代で止まってしまっているのだ。
それ以外に話せる共通の話題がない。
「今は、小説を書いてる。リモートで編集担当の人とやり取りできるけど、出版社はほとんど東京にあるから、こっちで暮らしていた方がいいかなと思って、大学卒業してからはずっとこっちにいる。」
「え、小説書いてるの?すごい!すごいよ、成瀬君」
私は、驚きのあまり柄にもなく感情のままに喜んだ。
三十代になってから、自分の感情を素直に表現することは少なくなっていた。
「小説書いてると言っても、全然売れなくて、今まで三冊しか出せてないし。そこそこ利益になったのは最初の一冊だけだよ。」
彼は私の素直な反応に戸惑いながらも照れているようだった。
私がやたらと興奮すると、彼はいつも少し呆れながらも、真摯に話に付き合ってくれていた過去を思い出す。懐かしい。
「いや、でもすごいよ。本好きからそこまで転じるなんて」
ほんとに、すごい。好きな事を仕事にできるってどれだけ幸せか…。
そういえば、私は大人になってから全然本を読まなくなった。
時間がないのを言い訳に、本に触れることが全くなくなっていた。
私は目の前の窓に映る成瀬君の顔を見て、電車に乗り込む時に感じた違和感をふと思い出した。
「そういえば成瀬君…、触っても大丈夫なの?」
「え?」
「いや、女の人に触れられないって言ってたから。克服したの?」
彼は気まずそうな、罪悪感で押し潰されそうな表情をした。
そんな彼を見て、私は間違えたと思った。
また、人が触れてほしくない場所に踏み込んでしまったのかもしれない。
こういう嫌なところは、若い時から変わっていない自分に呆れた。
しかし、彼は昔を思い出すようにポツリポツリと話し始めた。
「俺が大学を卒業するころ、母親が危篤状態にあるって聞いて。覚悟を決めて会いに行ったんだ。何年ぶりかに会った母さんの表情は穏やかだった。もう、死にそうでやつれているのに、それでも俺の記憶の中の精神的に病んでた母さんからは想像もつかないくらい穏やかで。そんな母さんがおそるおそる手を伸ばしてきて「ごめんね」って俺の手に触れたんだ。その手が、すごく暖かかったんだ。俺自身を見てくれていた」
私の知らない何年かの間にそんなことが…。
「よかったね、本当によかった」
「人に触れてぬくもりを感じることが、どれだけ大切だったか気づかされた」
次は、三鷹駅ですという車内アナウンスが聞こえる。
「相川さんは、ずっとそのことを俺に伝えてくれていたのに。あの時は、拒絶してひどいこと言って傷つけた。俺のせいで別れることになった」

別れる?????

「ずっと、ずっと謝りたいと思ってたんだ。もうだいぶ時間が経ってしまってけれど…。ごめん。でも俺はあの時君と会えてよかった」
今日、彼と初めてしっかり目が合った気がした。
三鷹駅に到着しました。というアナウンスが鳴る。
「じゃあ、俺はここで」
「うん」
頭の中が整理できず、呆然としていた。
彼はすっきりしたような顔で降りて行ったけれど、私は「うん」とたった一言を発するのが精一杯だった。
別れるって、何だ。あの言い方だと、まるで付き合っていたけれど、別れるに至ったみたいではないか。私の思い違いだろうか。言葉の解釈違いだろうか。
何か大事なことが記憶から抜け落ちているような気がしてならない。
嫌な不安が募る。
その時、吉祥寺駅に到着しました。というアナウンスが流れる。
「吉祥寺…」
高校時代に何度も通ったこの駅に気づいた時には降りてしまっていた。
何かその大事なものが見つかるような気がしたのだ。
見つけなければいけないと思った。
もう、外の暑さなんてすっかり忘れていた。
私が降りたその街は全然変わってはいなかった。
駅の付近こそ電車の大規模開発で変わってしまったものの、少し歩けばそこには知っている街並みが広がっていた。昔のままだ。
駅から歩いて、角を曲がったところに、私が求めていたそれはひっそりと佇んでいた。
少し、緊張しながら入る。
本のにおいが充満している。
この記憶がとても懐かしい。
「こんにちは」
昔の癖で挨拶をすると、奥の方からおじさんが出てきた。
だいぶ年をとっており、髪色がほとんど白くなって杖をついているが、表情でわかる。
あの時のおじさんだ。
「いらっしゃい」
高校時代に通っていたことを話すか迷ったが、おじさんが私のことを覚えているとは限らないのでやめた。もう、何年も前のことだ。
私は高校時代に比べたら、だいぶ外見も雰囲気も変わってしまっている。
「最近の本は電子しかないから、ずいぶん昔の本しか置けなくて…。お客さんも来なくなってしまって、今日で店を閉めることにしたんだよ。だから、君が最後のお客さんだね」
確かに、私が本を読まなくなった原因にそれも含まれるかもしれない。
二千三十年以降に出版されたものは、全部電子のみになってしまった。
それ以降、特に読む気がなくなってしまったような気がする。
「あの、成瀬佳って人の小説って置いてありますか?」
彼が書いたと言っていた小説が気になっていた。ここにならあるはずだと思ったのだ。
「お~、君、成瀬君のファンかい?あるよあるよ。確か…」
そう言いながらおじさんは指で本の背表紙を指しながら探している。
「お、あった」
「これは、彼のデビュー作だな」
おじさんは、本棚からそれを取り出す。
「この小説書いた子はうちの常連だったんだよ。よく、女の子と二人で来ていたな。ほら、そこでよくコーヒー飲みながら本を読んでて…」
おじさんが指したレジのカウンターには、飲みかけのコーヒーが置いてある。
コーヒーの匂いがほのかに漂う。
おじさんは、昔を思い出しなんだか嬉しそうに微笑んでいる。
「そうなんですか…」
長い人生の中の、あのたった一年の日々のこと覚えてくれている…。
それだけで、私にもこみ上げるものがあった。
「そうなんだよ。それで、この小説は親の離婚がトラウマで女性に触れることができなくなった少年とその少年の心を解かす女の子の純愛物語でね~。おじさんが思うには、作者の実話をベースにした話だと思うんだよね。あくまで、おじさんの想像なんだけど…」
「えっ?」
私はその本のあらすじを聞いて、動揺していた。
「いや、人と話すのが久しぶりで少ししゃべりすぎてしまったな」
そして、おじさんは恥ずかしそうにしながら、手に持っていた本を私に差し出した。
「これ買っていくかい?」
私はその時、差し出された小説の題名を見た。

「檸檬が好きな彼女…?」

本の匂い・・・・、コーヒーの匂い・・・・・、檸檬・・・・・・・。

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#思い起こされた感情


私は目的の本を探している成瀬君の手の上に自分の手をかざして握った。
一瞬、目が合ったがすぐに手を振り払われた。
それと同時に、目も逸らされ、そんな彼のそっけない態度にひどく傷ついた。
拒絶された。
今すぐ消えてなくなりたい、どこかに隠れたい気持ちになった。
一人で先走りすぎて、とにかく恥ずかしさに襲われていた。
自分から積極的になりすぎてしまったと後悔したけれど、それでも、もう付き合い始めて五か月も経つのだ。傲慢にも手くらい握ってもいいのではないかと思ったのだ。
「あ、ごめん。急に…。驚いたよね」
私は心の中の葛藤を隠すように、努めて明るく言った。
「いや・・・」
「でも、私は成瀬君のこと好きだから、もっと近づきたいと思ってる」
この状況では、勇気を振り絞った発言だった。
それでも、彼は苦い表情を変えない。
「ごめん…。本当は付き合う前に言わなきゃいけなかったことがあるんだ」
彼から何を言われるのか怖かった。
出来れば、聞きたくない。それでも、ここで向き合わなければ、全てが終わってしまうことだけははっきりしていた。
彼は気まずそうに口を開き始めて、幼少期に起きた体験が彼自身に女性へ触れることの嫌悪感があることを話した。
ショックだった。
この五か月、私だけが彼のことを好きだったのだという事実を突き付けられたような気がした。
「じゃあ、成瀬君は別に私のこと何とも思ってないけど、同情で付き合ってたってこと?」
私の声は自分でもわかるくらい震えていた。
そういうことじゃない。頭ではわかっている。彼を責めてはいけない。
でも自分のショックを覆い隠すのに必死だった。とても浅はかだった。
震えを抑えようと意識すればするほど余計に絞り出す声は震えた。
「いや、そういうわけじゃない。相川さんのこと、触れられないのが苦しいくらい好きなんだ…。触りたいって欲がないからと言って、誰も好きにならないわけじゃない。でも、相手も自分のことも傷つけるだけだと思って異性と関わることを避けて生きてきた。ただ、相川さんのことは避けられなかった。あの本屋で会った日から惹かれてた…。もしかしたら、君とならって。でも、少しでも自分に期待した俺が間違ってた。ごめん…」
「私なら大丈夫だから。私は成瀬君に触れられなくても一緒にいたい。それで二人で一緒に成瀬くんのトラウマを解決していこう」
私は何としても、彼という存在の隣にいたかったのだ。
自分が諦めの悪いことを言っている自覚はある。
「いや、ダメだ。きっと、これからも相川さんのことを傷つける。現に今だって…」
「ねえ、そうやって、なんで孤独な方を選ぼうとするの?人を避けて、人のぬくもりに触れずに生きていこうなんて、本当に傷つくのは成瀬君自身だよ。それじゃあ、君はいつまでもその過去から救われない。それに、今はダメでもこの先はどうなるかわからないじゃん」
「この先って…、期待される方がつらいんだ!!!」
いつも、穏やかな口調の彼が、強く感情に任せて叫んだ最初で最後の言葉だった。
彼に言わせていけなかった言葉を言わせてしまった。
彼の苦しそうな顔を見て、私がどんなに無神経なことをしていたのか思い知らされた。
結局、私は自分のことしか考えられていなかったのだ。
「ごめん…」
すぐにでも、声を出して泣き叫びたかった。
でも成瀬くんを傷つけてしまった私が彼の前でそんなことをする資格はない。
私は涙がこぼれる寸前で、彼には見せまいと家を飛び出した。
雪が降りしきる中、一人嗚咽を漏らして泣いた。
その日は泣きすぎて顔が真っ赤になりながらも、何とか家に帰宅した。
私の泣きはらした顔を見た母親は「そんな薄着で雪の中夜遅くまで外出てるから、そんなんなるのよ」と呆れながら私をお風呂場へ送還した。
お風呂に浸かりながら、冷えた体を温めているうちに、泣き疲れたせいか頭がぼんやりしてきた。
身体は温まったが、心は冷えたままだった。
涙は枯れてしまい、ただ胸の痛みだけが私の体の中で鳴り響いていた。

その日から、私はあの本屋に行かなくなった。

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学校では話したことはなかったし、私と成瀬君が付き合っていたことを誰にも言ったことがなかったので、私にとってそれは好都合だった。
私さえ忘れてしまえば、あの五か月間はただの夢で、幻覚だったということにできるからだ。そう思ってしまえば、気が楽だった。
でも、心の底では忘れたくないという思いがあったのかもしれない。
だから、二年生の最後の日まであの本を持ったままだった。
あの雪の日に借りた本。かれこれ、四か月も私の勉強机の中に眠っていた。
本当に、あの記憶と決別するのなら、この本をどうにか手放さないといけない。
きれいさっぱり、縁を切らなければならないと私は覚悟を決めた。
しかし、手放そうと学校に持ってきたはいいけど、成瀬君に話しかけるのはとても気まずい。どうやって返そうか迷いながら学校の門をくぐったその時、男子バスケ部の部室から出てきた明人を見かけた。
私は彼づてに返してもらおうと思い、呼び止めた。
「明人!」
「おお、相川。おはよう」
「あ、うん。おはよう」
彼なら、きっと無事にこの本を返してくれるはずだ。
「あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど」
「ん?珍しいな相川がそんな改まって頼み事してくるなんて」
私は鞄から本を取り出した。
「これ・・・・」
「これがどうしたの?」
「これを、成瀬君に返しといてもらってもいい?」
「は?いや、まあ別にいいけど、何で自分で返さないんだよ」
「いや、まあ。色々とあって・・・・」
彼は観察するような目で私の顔をじっと見つめてくるが、私は何も言えなかった。
そして、彼はしばらく何かを考えた後
「あ~、そっか。わかった。俺から返しとくわ」
と頷きながら了承してくれた。
これで、晴れて私は解放されたはずだった。
しかし、あの時の傷はなかなか私を逃してはくれなかった。
受験期は勉強に追われ、あの日々を思い返すことも少なくなった。
しかし、一人になった時にふと思い出してしまうのだ。
高校を卒業してからも、大学を卒業してからも忘れることはなかった。
雪が降る日、コーヒーの香り、が鮮明にあの記憶を思い起こす。
記憶なんてものは時間と共に自然と忘れていくものではないのか。
高校時代、他に楽しい思い出もあったはずなのに、それはなかなか思い出せない。
楽しい記憶に比べて嫌な記憶は永遠に残り続けるのだということだけはわかった。
そんな日々を送っている時、同窓会の知らせが届いた。
大学を卒業して五年後のことだった。
高校時代に仲の良かった友達と久しぶりに会えるという喜びの感情の中に、彼がいたらどうしようという不安があった。
もう、彼と関わりがなくなってから二十年も経つ。
それにもかかわらず、あの嫌な記憶が鮮明に思い起こされるのに、彼と会ったらどうなってしまうのか。自分でも想像ができず怖かった。
だから、同窓会の幹事に確認した。
彼が参加するのかどうかを。
彼の現在の連絡先、そして実家も取り払われたようで居場所がわからず、招待状を出せていないということで、むしろ幹事に「彼の連絡先を知らないか?」と逆に尋ねられる始末だった。
よくよく考えたら、彼は同窓会のような場所を好むような人ではなかった。
きっと、彼の連絡先がわかって招待状を出せたとしても来ないであろう。
冷静に考えれば、わかることだったのに気が動転していたようだ。
そう結論付けた私は同窓会に行くことを決めた。
私が勤めている会社はフルリモートのため、基本家にいることが多い。
なので、誰かに会いに外に出かけるは、少し張り切ってしまう。
AIによって決められた、寒色系の化粧品でメイクをする。
私は暖色が好きなのだが、AIによると寒色系の色が似合うらしい。
指定された広い会場に入ると、そこには既に何百人もの人がいた。
見覚えのある人もいるし、顔は覚えているけど名前が思い出せないというような人もいる。何十年も経てば、そんなものなのかもしれない。
「雅!」
「舞、久しぶり~」
「会いたかった~」
再会の抱擁を果たす。
部活が一緒だった舞だ。
「あ、そういえば結婚おめでとう」
「ありがとう」
高校時代バスケ部のメンバーで結婚していないのは、つい最近まで私と舞だけだった。
それが、今では私一人になった。
結婚がしたいわけでもないし、焦っているわけでもない。
誰かとそういうことを始めたりする気力が起こらないのだ。
きっと過去の記憶に囚われているからだ。
「式に参加できなくてごめんね。どうしても、行かなきゃいけない出張があって」
「気にしないくていいよ。雅は仕事、頑張ってるからね~」
同窓会は久しぶりに会えた友人たちと話が弾み楽しく終えられた。
そこから二次を会の話が出ていたが、子供がいる同級生たちは帰っていく。
私は、もう十分満足したので、帰宅することにした。
仲の良かった友人たちは、帰ってしまったし、二次会へ行ってだらだらと飲み続ける時間は蛇足になる気がした。
駅までの街道に沿うように光が灯っている。
ほろ酔いのせいか、気分が良くなってきて、街道を歩く私の足取りは軽くなっていた。
そして、ついにスキップをし始めた時、突然後ろから声をかけられた。
「相川」
私のことを呼んぶその声は高校時代以来に聞く声だった。
「明人…」
「久しぶりだな、さっき声かけられなかったから」
「あ~、明人も同窓会参加してたの?」
高校時代、仲の良かった人と会うのは、やはり嬉しい。
その時の私は気分が良かったこともあり、明人のそばに駆け寄った。
九年ぶりに会う明人はだいぶ身長が伸び、肩幅もがっしりとしていて、すっかり大人の男性になっていた。
「遅れて、途中から。でも、二次会とか行くと酔っ払いに面倒な絡み方されるから、もう帰ろうと思って」
「私も、同じ」
自然と二人並びながら駅に向かって歩き始める。
久しぶりに会った友人と話す話題といえば、近況報告と思い出話くらいだろう。
「明人は、今何やってる?」
「俺は高校で教師やってる」
「へ~、確かに明人は教師とか向いてそう」
「だろ?俺、生徒から人気あるから」
「自分で言うな」
彼は冗談めいて言っていたけれど、実際に人気はあるのだと思う。
「相川は?何やってるの?」
「私は、映画会社で配給の仕事」
「へ~、なんか意外だな。お前、学生時代は本が好きだったからそっちの方面の仕事就いてるのかと思った。ほら、成瀬から本借りたり…」
成瀬という言葉を聞いた瞬間の私の表情が固まったのに気づいたのか、彼はそれ以降の言葉を濁した。
「あ、ごめん。いや、今更聞くのもどうかなって感じなんだけど。薄々あの時も思ってたんだけどさ、お前たちなんかあったの?付き合ってただろ」
「えっ、気づいてたの?」
「いや、まあ、他の人は知らないけど、さすがに俺は気づくよ。成瀬、すごく楽しそうだったし、あの時…。だから何があったのかなって」
「…彼のトラウマに気づけずに、私は彼を傷つけて、それで自分も傷ついた。多分、お互い子供だったから、どうしようもなかったってことはわかってるんだけど。それでも、たまに、今でも思い出して苦しくなるんだよね」
この時、初めて、人に打ち明けることができた。
長年抱えていたものを。
「忘れられたら、楽なのにってよく思う」
明人はそんな私の言葉を聞いて迷いながらも話し始めた。
「あのさ、二千四十五年の技術特異点って知ってる?」
「二千四十五年の技術特異点?」
まさに、今年が二千四十五年だが、そんな言葉聞いたことがなかった。
「二千四十五年って生命や生物などのバイオをメカ化することができるようになるって昔から言われてたんだ。それで、今年実際にそれが実用化された」
「どういうこと?」
それが今の私の話に関係があるのだろうか?
「参考程度に聞いてほしい。今、脳の一部をメカ化して、自分の持つ記憶を望む記憶に置き換える技術が実用化されたらしい。心に負ったトラウマや傷の治療法として、心理療法の一つとして、使われ始めてるんだ。多分、今の相川を見る限り・・・・、治療認められると思うよ・・・・」
私は衝撃のあまり、その場に立ち止まった。
信じられない話だった。
二千四十年あたりから、町中は機械だらけになった。
単純な労働作業は人間から機械に変わり、色々なものが機械に置き換えられたが、まさか脳の一部を機械化することができるようになっているなんて。
しかも、記憶を置き換えることができると…。
「それ、本当なの?」
「友人に精神科医がいてな。そいつから聞いた話。でも、大事なことだと思うから、受けるか受けないかはゆっくり考えたほうがいい」
その日、明人と別れたあとは気が気でなかった。
頭がぐるぐると回っている感覚がずっとしていたけれど、私はその日の翌日、すぐさま近くの精神科がある病院に出向いていた。
そして、手術をすることが決定したのだった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

#忘れえぬ記憶


気が付いたら、涙がこぼれていた。
心にたまっていた感情がダムの洪水のように全て吐き出てゆく。
私はなぜあの記憶を忘れたいなんて思ってしまったのか。
あの時、付き合っていた彼に拒絶されたのがショックで、別れたことがずっと脳内にこびりついて離れなかった。
その記憶から逃げたくて、囚われるのが嫌で手術を行ったのだ。
でも、忘れる必要なんてなかったのに…。
輝いて、ただ暖かいだけでなく、痛くて苦しいことも、全て含めて私の青春だったのに。
私は止まらない涙をぬぐって、顔を上げて笑って言った。
「これ、買います」


#創作大賞2024 #恋愛小説部門


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