権力者と文学センス
どちらの小説も読んで面白いのですが……
「そして誰もいなくなった」「オリエント急行の殺人」の“デイム”アガサ・クリスティ作品は、<文学>ではありません。
対して、「シャーロック・ホームズの冒険」「バスカヴィル家の犬」の“サー”アーサー・コナン・ドイル作品は、れっきとした<文学>です。
ちなみに、それぞれの名前の前につく「デイム」「サー」は、当人1代だけに与えられる「貴族」の称号(世襲でない)で、女性は「デイム」、男性は「サー」になります。
このように英国では、一介の小説家であろうと、その優れた功績に称号が付与されることがあります。
我が国では、スポーツ選手や芸能関係者が「国民栄誉賞」を受賞するばかりで、小説家が受賞した例は過去にありません。いちばん近くても、「サザエさん」の作者である漫画家の長谷川町子どまり。
私は、司馬遼太郎、松本清張など、十分にその資格があると思うのですが……小説を書く人間は基本「現状不満」「反体制」なので、間違っても政府が褒め称えるはずありませんね。
「国民栄誉賞」なんて、しょせん、時の首相が人気取りを狙って有名人の手柄に便乗するだけの「駄賞」ですし、司馬さんも松本さんも、「そんなもん要らねえ!」と突き返しそうです。
もとい。
では、<文学>であるか否かの違いはどこにあるか。
一言で言えば、
人間を描いているか
これに尽きます。
クリスティーの作品は、「謎解き」を中心に据えた一種のパズルであり、登場人物は単なる「駒」にすぎません。
語弊を恐れずに言えば、「ストーリーのある複雑な犯人当てクイズ」なのです。したがって、「謎解き」の部分を取り除いてしまうと、後には何も残りません。
名探偵エルキュール・ポアロは、確かに古今東西あらゆる小説の中でも、トップクラスにユニークなキャラクターですが、実在感が乏しく、「生の息吹」が感じられません。
シャーロック・ホームズのシリーズはどうでしょう。
結末の「謎解き」「種明かし」の部分を切り落としても、立派に小説として成立しています。なぜなら、ポワロ以上に複雑でエキセントリックなホームズというキャラクターが、およそこの世に存在しそうもない特異な人間でありながら圧倒的リアリティを持ち、ちゃんと「息づいている」からです。
だから、往時の読者たちは、ホームズを架空の登場人物とは思わず、実在する名探偵だと信じ、ロンドン・ベーカー街221番地Bに捜査依頼の手紙を送り付けたのです。
抽象的で散文的な表現になりますが、クリスティとコナン・ドイルの違いは、文字には書かれていない部分を読者に想像させる「行間の奥行き」にあります。
その「奥行き」を感じ取れる読者は、「文学のセンス」があるということです。
残念なことに、「センス」というものは先天的に備わっているもので、後天的な学習で身につけることはできません。生まれつき足が速かったり、歌がうまかったりするのと同じです。
念のため述べておきますが、クリスティをけなしているわけではありません。私自身、中学生のころにクリスティにハマり、半分以上の作品を読破しています。
上記2作品以外にも、「アクロイド殺し」「ABC殺人事件」「ナイルに死す」などはオススメです。
「文学」は、<人間の本質>を探究する学問です。
はるか昔から、人は「物語」を通して、「人間とはいかなる存在なのか?」を問うてきました。
その証拠に、現代の心理学で用いられる「○○コンプレックス」や「△△効果」などの用語には、ギリシャ神話や聖書のエピソードに登場する人物の名前が多くつけられています(「エディプス・コンプレックス」だの「シンデレラ・コンプレックス」だの)。
つまり、20世紀以降になって少しずつ解き明かされつつある「人間の本質」に、何百年も昔の「語り手」たちは、とっくに気づいていたということです。
前置きがすっかり長くなりましたが、ここからが今日の本題。
世の権力者たちは、ことごとく「文学のセンス」を欠いています。皆無と言ってもいいでしょう。
連中は、「人は欲望で動く」と固く信じ、「金で言うことを聞かせる」ことに懸命です。なんとなれば、自分たちの行動基準が唯一「金」であり、自分以外の人間も皆そうであると思っているからです。
なので、「金に釣られない」人が現れると、どう対処していいかわからず、権力を総動員して徹底的に屈服させようとします。
連中にとって、「大金を積んでも言うことを聞かない」者の存在は、単なる「価値観の違い」では済まされず、もはや「人間以外の異質な生物」であり、世界から排除すべき対象なのです。
コオロギ太郎が演説中にヤジる聴衆を「金のためにやっている」と決めつけてしまうのは、かくいう自分自身のあらゆる言動が「金銭利得」に基づいているため、ほかの人間もそうに決まっていると思い込んでいるからです。
金銭には代えられないもののために行動する人間がいることを、彼には決して理解できません。だって、自分の頭の中がドル袋のことでいっぱいだから。
もし権力者どもに、ほんのかけらでも「文学のセンス」があれば、人間とは矛盾や葛藤を抱えた複雑な生き物であり、その「多様性」こそが人間を人間たらしめているという「真理」を理解できるでしょうに。
裏を返せば、「この世には金よりも価値のあるものがある」と考える「文学センス」のある人間は、金銭に対する執着が薄いために、金持ちにはなれない宿命にあります。
……そう、私みたいに(泣)