なぜ人は【期待】をしてしまうのか。-期待という名の、甘くて苦い毒-
映画のチケットを買おうとして、ふと立ち止まる。SNSはこの映画の話題で持ちきりだった。「マジで名作」「絶対に映画館で見るべき」「今年No.1」─—そんな声が溢れている。
友人からもLINEが来ていた。「これ、お前の好みだから。絶対に後悔させない」。その言葉に、なんとなく重みを感じてしまう。後悔させないと言われると、なんだか後悔しそうな気がしてくる。人間の心理って、本当に厄介だ。
チケット売り場のディスプレイに映る上映時間を眺めながら、「あまり期待しすぎないようにしよう」と心の中で呟く。でも、その瞬間に気づいた。「期待しすぎないようにしよう」と思う時点で、もう期待してるじゃないか。
この前だって同じことがあった。人気店の新作スイーツ。友人が「天国を味わった」という触れ込みで買ってきてくれた。開ける前から、もう天国めいた味を想像していた。結果は...まあ、普通に美味しかった。でも、なんだか消化不良のような後味が残った。
映画館のロビーには、期待に満ちた人々が溢れている。カップルは「楽しみだね」と言い合い、友達同士は予想を語り合う。皆、口には出さないけれど、きっと「これは外れじゃないはず」という淡い期待を胸に抱えている。
面白いもので、人間って「期待」なしには生きていけない生き物らしい。デパ地下の食品売り場だって、試食があるのに必ず匂いを嗅ぐ。分かってるはずなのに、期待せずにはいられない。
チケットを買う。座席を選ぶ指が、微妙に躊躇う。「この席からの見え方は?」「音響は?」─—もう期待と不安の狭間で揺れ始めている。結局、人生の多くの時間を、僕らはこの「期待」という名の甘い毒に浸されて過ごしているのかもしれない。
そうか、もしかしたらこの「期待」という感情こそ、映画を観る前から僕らを物語の中に引きずり込む、巧妙な序章なのかもしれない。
「チケット、1枚でお願いします」
声に出した瞬間、期待という名の蜜が、少しずつ体の中に染み込んでいくのを感じた。
日常に潜む「期待」の正体
先日、甥っ子の誕生日プレゼントを渡す機会があった。箱を差し出した瞬間の、あの輝くような目の表情。プレゼントの中身より、開ける前の期待に満ちた表情の方が、なんだか愛おしかった。
考えてみれば、大人になった今でも、似たような感覚は残っている。転職サイトからの「新着メッセージ」通知。マッチングアプリの「いいね」。LINEの既読表示。どれも開く前の方が、なぜか心臓がときめく。期待という名の蜜は、年齢を重ねても色褪せないらしい。
この前、受験生の親から相談を受けた。「娘が合格発表まで眠れないって」と。分かるなぁ、と思う。あの、結果が出るまでの時間の濃さ。期待と不安が入り混じった、妙に官能的な時間。実は、結果を知る瞬間より、その前の「まだ何でもある」という時間の方が、人生において貴重なのかもしれない。
駅のホームで電車を待っている時だってそうだ。「次に来る電車は、空いてるかな」なんて期待してしまう。分かってるんだ。ラッシュ時に空いてる電車なんて、奇跡に近いって。でも、期待せずにはいられない。
有名シェフのレストランで、コースの最後の一皿を待っている時。好きな作家の新刊の発売日が近づいてくる時。査定の結果が出るまでの数日間。人生の様々な場面で、僕らは「期待」という麻薬に酔いしれている。
面白いことに、「期待」には人を盲目にする力がある。ネット通販でポチった商品を待つ間、あれほど頻繁に追跡番号を確認する必要なんて、本当はないはずだ。でも、確認せずにはいられない。その行為自体が、ある種の快感を伴う。
先日、同僚が「告白の返事を待ってる」と打ち明けてきた。「期待しないようにしてるんだけど」と言いながら、スマホの画面を見る度に表情が曇る。言わなくても分かる。期待しないようにしているその仕草自体が、すでに深い期待の証なんだって。
結局のところ、人は「分かってから楽しむ」より「期待して待つ」方に、より強い魅力を感じる生き物なのかもしれない。それって、ある意味では賢明な選択かもしれない。だって、期待している時間の方が長いんだから。
そう考えると、期待する能力は、退屈な日常に魔法をかける秘薬なのかもしれない。ただし、使用上の注意として、「副作用には十分注意が必要」という但し書き付きで。
期待と不安の表裏一体性を探る
「期待しすぎると、失敗するらしいよ」
この前、お気に入りの作家の新刊を前に、友人がそんなことを言った。なるほど。でも待てよ。「期待しすぎない」ようにするために、わざわざ期待について考えるって、なんだか本末転倒じゃないか。期待について考えること自体が、すでに期待の一部なんじゃないか。
面白いもので、「期待するな」という言葉ほど、期待を助長するものはない。「この映画は期待しないで見たほうがいい」と言われた瞬間から、なぜか脳は期待モードに入ってしまう。まるで「考えるな」と言われて、余計に考えてしまうように。
先日、久しぶりに同窓会の案内が来た。「期待はしていないけど」と言いながら、参加を決めた同期が多かった。でも、その「期待してない」という言葉の裏に、かすかな期待が潜んでいることくらい、みんな薄々気づいているはずだ。
人間って、不思議な生き物だ。期待することに罪悪感を覚えながら、期待せずにはいられない。期待が裏切られる痛みを知っているのに、また期待してしまう。まるで、ちょっとずつ毒を飲んでいるみたいだ。でも、その毒があるから、人生は味わい深くなるのかもしれない。
この矛盾した感情の正体って、なんだろう。期待と不安は、実は同じコインの裏表なのかもしれない。期待するから不安になる。不安だからこそ、期待せずにはいられない。
考えてみれば、赤ちゃんが初めて歩こうとする時だって、期待と不安は隣り合わせだ。転ぶかもしれない不安と、歩けるかもしれない期待。その微妙なバランスの上に、人生の一歩が刻まれる。
SNSの時代になって、この「期待の循環」は加速している。「いいね」を期待して投稿し、「いいね」が付くことを期待して確認し、また次の投稿への期待が生まれる。永遠に終わらない期待の連鎖。
でも、よく考えてみると、期待って意外とわがままな感情かもしれない。相手の出方を、自分の思い通りに予測しようとする。未来を、自分の都合のいいように描こうとする。その無理が、時として大きな失望を生む。
それでも人は期待する。明日は今日より良い日になるかもしれないと。この選択は間違っていないかもしれないと。
そうか、もしかしたら期待とは、未来に向けて投げかける、小さな魔法なのかもしれない。時には裏目に出る。でも、その魔法があるからこそ、明日もまた一歩を踏み出せる。
そう考えると、「期待するな」という忠告自体が、人生から魔法を奪おうとする行為のような気がしてくる。
期待が裏切られる痛みの深層
先日、期待に胸を膨らませて食べた高級レストランの料理が、「まあ、こんなもんか」で終わった時のことを思い出す。あの微妙な空虚感。単に美味しくない料理を食べた時とは、明らかに違う種類の失望があった。
期待外れって、なんでこうも心に突き刺さるんだろう。考えてみれば、期待するということは、ある種の「前払い」なのかもしれない。まだ来ぬ喜びを、頭の中で先取りして消費している。だから、その借金が返せなくなった時、心が痛むのかも。
SNSの時代になって、この「期待値インフレ」は加速している気がする。「人生最高の瞬間!」「最高の仲間!」「至福の時間!」──そんな言葉が飛び交う中で、僕らの期待値はどんどん上がっていく。普通の幸せが、どんどん色褪せていく。
この前、後輩が嘆いていた。「みんな充実した人生送ってるように見えて...」と。分かるよ、その気持ち。でも、それって誰かの投稿を見て感じる期待と、自分の現実とのギャップに苦しんでるだけなんじゃないかな。
面白いことに、期待に裏切られる痛みを知っているはずの人間が、また期待してしまう。まるでギャンブル依存症のように。この前負けたから、今度こそ勝てるはず──そんな歪んだ期待の論理。
他人の期待に縛られるのも、現代人の宿命なのかもしれない。「期待してるよ」という言葉。その優しい響きの裏に潜む、重たい鎖。期待されることは、時として最大の重荷になる。
でも、よく考えてみれば、期待して裏切られる痛みがあるからこそ、期待が叶った時の喜びも深くなる。ハードルが高いほど、越えた時の達成感は大きい。まるで、苦みがあるからこそ際立つコーヒーの香りのように。
先日、昔々に失恋した相手のSNSを見てしまった。その時の期待と失望が、今となっては良い思い出に変わっている。痛みを伴う経験は、時として人生の味付けになる。
結局、期待するということは、人生という料理に「かもしれない」というスパイスを振りかけることなのかもしれない。時には舌を焼くほど辛く、時には甘美な後味を残す。でも、そのスパイスがあるからこそ、人生は単なる栄養摂取以上の営みになる。
そう考えると、期待に裏切られる痛みさえも、人生には必要な要素なのかもしれない。その痛みがあるからこそ、次の期待が、より深みのある味わいを持つようになる。
深夜のコンビニの新商品棚の前で
深夜のコンビニで、新商品コーナーの前に立っている。「待望の新作!」「話題沸騰中!」──POPの文字が、蛍光灯の下で妙にギラついて見える。
手に取った新商品のパッケージには、実物より明らかに美味しそうな写真が印刷されている。分かってる。絶対に写真ほど美味しくない。それでも、「もしかしたら」という期待が、レジに向かう足を軽くする。
そういえば、この前買った新商品だって「まあ、こんなもんか」で終わったはずなのに。それなのに、また新商品を手に取っている。人間って、実に面白い生き物だ。
レジで会計を済ませ、店を出る。駐車場の隅で商品を開けながら、ふと考える。もしかしたら、期待するという行為自体に、何か特別な意味があるのかもしれない。期待することで、ただの新商品が「もしかしたらすごく美味しいかもしれない何か」に変わる。普通の待ち合わせが「素敵な出会いがあるかもしれない時間」になる。
つまり、期待とは現実に魔法をかける呪文なのかもしれない。その呪文は、時として裏目に出る。でも、その可能性があるからこそ、日常は特別な色を帯びる。
口に入れた新商品は、案の定「まあ、こんなもんか」という味だった。でも、不思議と腹は立たない。むしろ、「次は何を試そうかな」という期待が、もう芽生え始めている。
帰り道、自販機の「新商品」ボタンが、どこか意味ありげに光っているような気がした。きっと明日も、僕らは期待という名の蜜を求めて、どこかをさまよっているんだろう。それもまた、人生という物語の、大切なページなのかもしれない。
「期待」という言葉の響きを噛みしめながら、家路を急ぐ。空き缶を捨てようとした時、当たりくじが付いているのに気づいた。思わず、口元が緩む。
ほら、また期待している。でも、いいんじゃないか。期待して、裏切られて、また期待する。その繰り返しの中に、きっと人生の味わいが隠れているんだから。
今夜も、どこかの誰かが、何かを期待している。その小さな魔法が、この世界を少しずつ、でも確実に動かしているのかもしれない。
空き缶のくじを、まだ見ないでおこう。「もしかしたら」という期待を、もう少しだけ味わっていたい。そんな気分の、深夜のコンビニ帰りだった。
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