なぜ人は「運」を信じるのか-運を信じる僕らの、都合のいい真実-
夕方のパチンコ店の前を通りかかった時のことだ。ガラス越しに、妙な光景が目に入った。台を優しく叩く人、激しく叩く人、お守りを並べる人、独り言を延々と唱える人。誰もが必死に、目の前の機械と対話を試みているように見えた。
思わず、笑みがこぼれる。でも、自分のスマホの中を見てみろよ。占いアプリが堂々とホーム画面に鎮座している。この前の面接の日だって、なんとなくいつもの時計をつけた。理由を聞かれても答えられないけど、なんとなくそうせずにはいられなかった。
電車で座れた日は「今日はいい日になりそう」と思ってしまうし、財布の中の千円札が偶然きれいに折られていると、なんだか得した気分になる。人間って、妙なものだ。
科学が発達して、AIが将棋の名人に勝つ時代。それなのに、僕らはまだこうして「運」という目に見えない何かにすがりつく。パチンコ店の前で笑っていた自分が、急に滑稽に思えてきた。
コンビニのおでんを選ぶ時だって、実は「運」を意識している。大根を選ぶ指が、微妙に迷う。「このあたりにいい出汁が染みてそうだな」なんて考えながら。でも、それって本当に見分けがつくものなのか?それとも、単なる自己暗示か?
先日、久しぶりに実家に帰った時、受験の時に買ったお守りが、まだ机の引き出しにしまってあるのを見つけた。もう効果は切れているはずなのに、なんとなく捨てられずにいる。非科学的だって分かっているのに、この小さな布袋には、あの時の願いや不安が詰まっている。
パチンコ店の前を通り過ぎながら、ふと立ち止まる。ガラス越しに見える光景は、もしかしたら、人間の素直な姿なのかもしれない。計算づくで生きていると思い込んでいる現代人の、隠れた本心。
結局、僕らは「運」を信じたいんじゃなくて、「運を信じている自分」を必要としているのかもしれない。その方が、この理不尽な世界で生きていく気が楽になるから。
そう考えながら歩いていると、どこからともなく「大吉」と書かれた紙切れが風に舞って足元に落ちてきた。拾うべきか迷う自分に、思わず苦笑い。
この先にある商店街の自販機で、何を買おうか。そんなどうでもいい選択にも、きっと僕は「運」の影を探してしまうんだろう。
日常に潜む「運」への依存
スポーツ選手って面白い。試合前の決まったルーティン。同じタイミングでの同じストレッチ。勝負下着なんて言葉すら生まれた。あれだけ科学的なトレーニングを積んで、栄養管理もバッチリなのに、最後の最後で非科学的な儀式に頼る。
先日、営業部の課長が新しい靴を履いてきた日のこと。大事な商談で、見事に撃沈。「やっぱり、いつもの靴にすればよかった」って、本気で悔やんでいた。隣で聞いていた僕は、何も言えなかった。だって、自分だって同じことを考えるから。
この前、久しぶりに高校時代の友人と会った。受験の時、二人で近所の神社に行って必死に祈ったっけ。今じゃ一流企業のエリートになった彼が、転職の相談の前に「実は今朝、あの神社行ってきたんだ」って言うもんだから、思わず吹き出してしまった。でも、その後すぐ「おみくじ、引いてきた?」って聞いている自分がいた。
コンビニのレジで、財布から出てきた五円玉を大切そうに持ち帰るサラリーマン。病院の待合室で、呼ばれる順番に一喜一憂する患者たち。プレゼンの資料、なぜか13ページにはしたくない上司。
不思議なもので、こういう非科学的な行動を取る人のことを、僕らは笑えない。というか、むしろ妙に共感してしまう。「運を味方につける」という行為に、人類共通の何かがあるような気がする。
この前、会社の若手と飲んでいた時のこと。彼が真面目な顔で「転職市場での自分の市場価値について、占いに相談してきました」と言い出した。バカバカしいと思いつつ、なぜか納得してしまう。不確実な未来に対して、どこかに「お墨付き」を求めたくなる気持ち。
そういえば、昔から「運のいい人」っているよね。いつも良いタイミングで良い出会いがある人。デートの日はいつも天気がいい人。宝くじが当たる人。彼らに「運を引き寄せる秘訣」を聞いても、たいてい「特に意識したことはない」って言う。
でも、よく観察すると、そういう人たちには共通点がある。必要以上にネガティブにならない。チャンスを見逃さない。そして何より、「自分は運がいい」と信じている。
まるで、運というのは、信じる者にだけ微笑みかけるような。そう考えると、さっきまで笑っていたパチンコ店の光景も、また違って見えてくる。
運と実力の境界線を探る
「実力」って、なんだろう。
先日、プロ野球選手のインタビューを見ていた。「運を味方につけるために、毎日の練習を欠かさない」と言う。一見、矛盾しているような言葉。でも、どこか腑に落ちる。
株式投資をしている友人が言っていた。「データ分析して、徹底的に研究して、それでも最後は運。でも、その『運』に賭けられるだけの根拠を作るのが実力なんだ」と。なるほど、と思う。運と実力は、水と油じゃないのかもしれない。
よく考えてみれば、僕らが「実力」と呼んでいるものの中にだって、運の要素は紛れ込んでいる。一流企業に入社できたのは実力?でも、その時の面接官の機嫌だって関係していたはず。昇進できたのは努力の賜物?でも、タイミングや人間関係という運的要素を無視するわけにはいかない。
「運を実力に変える」なんて言葉もある。でも、もしかしたら逆かもしれない。実力とは、運を見分ける力。運を活かす力。運と向き合う覚悟、とでも言うべきもの。
先日、タクシーの運転手さんとこんな話になった。「この時間のこのルートなら、だいたい信号に引っかからないんです」。それって実力?それとも運?結局のところ、長年の経験で培った「運を引き寄せるコツ」なんじゃないだろうか。
面白いことに、実力がある人ほど運の存在を認めている気がする。逆に、実力のない人は運が悪いことばかり嘆く。この違いは、きっと偶然じゃない。
カジノのディーラーって、不思議な職業だ。確率という科学に支配された世界で、運と実力の境界線と向き合い続ける。「勝負運」という言葉の真意を、誰よりも理解しているんじゃないだろうか。
美容師の腕は実力だ。でも、その日の客の髪質や気分という「運」も絡んでくる。料理人の腕も実力だ。でも、その日の食材との「相性」という運も無視できない。
つまり、実力とは、運と向き合うための技術なのかもしれない。運を味方につけるための作法。運を受け入れる覚悟。
そう考えると、さっきまで「非科学的」だと思っていた行動も、ある種の実力なのかもしれない。運と上手く付き合うための、人類の知恵。
そういえば、昔の人は「運を天の配剤(はいざい)」と呼んだそうだ。人知の及ばない力を認めつつ、それと付き合っていく術を持っている。その謙虚さこそが、しなやかな強さを生むのかもしれない。
運を信じる心理の深層
コントロールできないものを、人は怖がる。
先日、会社でこんな会話を耳にした。「頑張れば、運は向いてくる」。その言葉を聞いた瞬間、妙な違和感が走った。だって、それって結局、「運」を「努力」でコントロールしようとしているんじゃないか。
人間って、不思議な生き物だ。科学的に説明できないことがあると、すぐに何かしらの「理由」をでっち上げたがる。江戸時代、地震は大地の下にいる大鯰のしわざだと信じられていた。今だって、似たようなことをしている。株価が下がれば「市場心理」なんて言葉で説明しようとする。分からないものを、分かった気になりたい。
SNSの時代になって、「運」の形も変わってきた。「いいね」の数で幸運を実感する。「フォロワー」の数で運気を測る。その投稿が人の目に留まるかどうかも、アルゴリズムという名の「運」次第。
でも、よく考えてみれば、「運を信じる」という行為には、実は都合のいい二面性がある。失敗した時の言い訳になると同時に、頑張るための理由にもなる。「運が悪かった」と諦められる一方で、「運を引き寄せるため」と努力もできる。
この前、久しぶりに宝くじを買った。「当たるわけない」と思いながら、「もしかしたら」という期待も同居している。この矛盾した感情が、妙に心地よい。科学的な思考と非科学的な期待が、人間の中で不思議な均衡を保っている。
考えてみれば、現代の若者たちが占いにハマるのも、同じような心理かもしれない。不確実な未来に対して、何かしらの「答え」が欲しい。でも、その「答え」は、絶対的な運命というよりは、選択肢の一つとして扱われている。
つまり、現代人の「運信仰」は、より戦略的になっているのかもしれない。運を信じることで得られる心理的安定と、それを適度に疑う冷静さ。その絶妙なバランスの上に、僕らは生きている。
スマホの中の占いアプリを見つめながら、ふと思う。もしかしたら、運を信じることは、人生における一種の「調味料」なのかもしれない。入れすぎると台無しだけど、適度に加えることで、人生という料理に深い味わいを加えてくれる。
そう考えると、「運を信じる」という行為自体が、人生を豊かにする知恵なのかもしれない。
夜の自販機での出来事
夜の自販機の前で、ポケットの小銭を数えている。百六十円のコーヒーを買うのに、十円玉と五円玉を必死に探す。「あと、二十円...十五円...」と指の上で転がす小銭たち。こんな時間に、こんなことをしている自分って、なんだか滑稽だ。
と、その時、カバンの底から五円玉が出てきた。ちょうど、ぴったりの金額になった。思わず「よっしゃ」と声が出る。誰もいない道端で、一人で小さな歓声を上げる中年男。これはこれで、なかなかの様相だ。
でも、この何でもない偶然に、なぜか心が躍る。「今日は、いい日になるかも」なんて思ってしまう。いや、もう夜なのに。
ふと、パチンコ店で見た光景を思い出す。あの人たちだって、きっと同じような小さな偶然に、似たような高揚感を覚えているんだろう。それを「運」と呼ぶか、「偶然」と呼ぶかは、人それぞれ。でも、その瞬間の気持ちは、きっと普遍的なものなんだ。
コーヒーを手に取りながら、考える。結局、「運」って、人生における「意味づけ」なのかもしれない。この缶コーヒーだって、小銭がぴったり合ったから特別な一杯に感じる。明日になれば、ただの缶コーヒーだってことは分かっている。でも、今この瞬間は、なんだか「運命の一杯」な気がする。
人生って、案外そんなものじゃないだろうか。日々の小さな偶然に、自分なりの物語を見出す。それを「運」と呼んで、人生に彩りを加える。
缶コーヒーを開ける。プシューっという音が、静かな夜に響く。
実力を磨いて、運と向き合う。運を信じつつ、努力を怠らない。その微妙なバランスの上に、僕らの人生は成り立っているのかもしれない。
結局、運を信じることは、人生を面白がる一つの方法なんだ。そう思えた時、缶コーヒーの味が、いつもより少しだけ深く感じられた。
そうそう、このコーヒー、今日は当たり付きだったりして──なんて考えながら、家路を急ぐ。夜の街に、自販機の明かりだけが、どこか意味ありげに煌めいていた。
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