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誰のための「思いやり」なのか-偽善という名の自己満足-
電車で席を譲る。「ありがとうございます」という言葉を待ちながら。でも、相手は無言で座るだけ。その瞬間、善意の気球が針で刺されたみたいに萎む。優しさのつもりが、承認欲求だった。人間って、本当に気持ち悪い生き物だ。
駅の階段で荷物を持ってあげた時も同じ。「助けてあげている」という優越感。SNSにでも投稿したくなる衝動。「今日も誰かの役に立てた自分」みたいな。その自撮り精神の醜さに気づいた時、手の中の荷物が急に重たくなった。
この前、コンビニで募金箱に小銭を入れながら考えた。店員さんに見られたいから金額を増やす自分。誰も見てない時は素通りする自分。500円玉が募金箱に落ちる音は、偽善の音がした。
優しさって、純度100%なんてないのかな。
見返りを求める気持ちと、
本当に困ってる人を助けたい気持ちが、
いつも綱引きしてる。
通勤電車で、また誰かに席を譲るだろう。
でも今度は、自分の中の偽善者に気づいたまま。
それでも、その不純な優しさは、
誰かの疲れた朝の、ちょっとした救いになるのかもしれない。
返ってこない「ありがとう」に苛立ちながら、
それでも誰かのために立ち上がる。
この矛盾した感情を抱えたまま、
今日も電車は走り続ける。
優しさの報酬制度
SNSのタイムライン。「困ってる人を見過ごせなくて...」というつぶやきに、いいねが集まってる。この承認欲求の集金システム。困ってる誰かは、結局、私の「いい人アピール」の踏み台になってるだけ。
友達の愚痴を聞く時だって計算高い。適度に相槌を打って、適度に同情して、適度に励まして。この親身な演技に、将来の人脈という期待を上乗せして。慰める言葉の端々に、見返りの利息が付いてる。
「困ってる人がいたら助けたい」
それって本当?
それとも「困ってる人を助けてる私」が好きなだけ?
この自問自答から逃げ出すように、また誰かの相談に乗る。
この前、同僚が残業してるの見かけた。手伝うか迷って、結局手伝った。でも、その親切の裏で計算してる。来月の企画、この人に協力してもらえるかも。善意の包装紙に包んだ、打算の贈り物。
カフェで隣の女性がスマホ充電器を探してた。貸してあげようか迷う頭の中で、見返りの値段を勝手に設定してる。この状況をSNSに投稿したら、何人が「いいね」くれるかな。結局、充電器は鞄の中のまま。承認の期待値が足りなかった。
善意の市場価値って、どうやって決まるんだろう。
誰かの「ありがとう」の値段。
SNSの「いいね」のレート。
この見えない相場で、私たちは優しさを売り買いしてる。
雨の駅前で、傘を持ってない人とすれ違う。
貸そうか迷う心に、また打算が忍び込んでくる。
この優しさは、きっと明日の何かに化けるはず。
そう思った時点で、もう傘は差し出せない。
思いやりという支配
「私が気を遣ってるのに」
この言葉を武器に、誰かを責めたくなる衝動。相手の自由を奪うカード。思いやりって、実は最強の脅迫状なのかもしれない。優しさを振りかざして、誰かを自分の思い通りにしたがる、この歪んだ支配欲。
面倒見がいい先輩面して、新人の世話を焼く。でも本当は、その「世話」で相手を縛りたいだけ。「あの時助けてあげたでしょ」っていう借用書を、後輩の首に巻き付けたい。善意という名の首輪で、誰かを飼いならそうとする。
会社の先輩も同じことしてた。「あなたのことを考えて」って言いながら、結局は自分の価値観を押し付けてた。思いやりの包装紙に包まれた、押し付けがましい親切。その時の息苦しさを、今度は私が誰かに与えてる。
「困ってるんでしょ?」
この決めつけが、妙な快感を伴う。
相手を「助けが必要な人」に仕立て上げることで、
自分の存在価値を確認したい。
友達の恋愛相談に乗りながら、内心ほくそ笑む。
「私がいないとダメな子ね」って。
この優越感に浸りたくて、
わざと相手の不安を煽ってたりして。
昨日も誰かの愚痴を聞いた。
「大丈夫、私が味方だから」って。
この「味方」って言葉の裏に、
支配者になりたい欲望が隠れてる。
相手の弱みに付け込むような優しさ。
困ってる誰かに手を差し伸べる振りをして、
実は首根っこを掴もうとしてる。
この卑怯な親切の正体に、やっと気づき始めた。
自己満足の正体
「誰かのために」って、結局嘘なんだ。
駅前で募金活動してる高校生に千円札を出す。でも、それは世界の貧困を救いたいからじゃない。「優しい大人」を演じたいだけ。見てるよね?私の善意。周りの視線を意識して、財布の中の百円玉を千円札に変える。この自己演出の値段。
面白いよね。誰かを助けると、なんでこんなに気分がいいんだろう。困ってる人を見つけると、なんでこんなにテンション上がるんだろう。まるで、誰かの不幸は私の出番を作るための舞台装置みたい。
後輩の仕事を手伝いながら、心の中でにやける。「私って、めっちゃ優しい先輩だよね」って。この独りよがりな自己満足。きっと後輩は息苦しいんだろうな。私の押しつけがましい親切に、「ありがとうございます」って言わされて。
道で転んだ子供を助け起こす。
その瞬間、スマホのカメラを構えたくなる自分がいる。
「今日の善行」をSNSにアップしたい衝動。
投稿用の優しさなんて、本当は残酷なのに。
同僚の失恋話を聞きながら、心の中で喜んでる。
「こんな私に相談してくれるなんて」
「私がいないと、この子はダメね」
善意の仮面の下の、この優越感。
誰かの弱みは、私の強さになる。
誰かの不幸は、私の出番になる。
誰かの困りごとは、私の自己満足のネタになる。
この気づきが、また新しい偽善を生む。
それでも、この歪んだ善意が、
たまには誰かの役に立つのかもしれない。
そう思って、また今日も誰かのために立ち上がる。
この打算的な優しさと一緒に。
不純な善意と生きる
深夜のコンビニ。店員が重そうな荷物を運んでる。手伝おうか迷う。でも今回は、自分の中の打算まで丸見えだ。店員に感謝されたい。周りに見られたい。明日、この話を誰かにして、「いい人だね」って言われたい。この下劣な承認欲求の正体。
それでも、結局荷物を持つ。
下劣な動機も、偽善者な自分も、全部わかったうえで。
こんな不純な善意でも、
誰かの重荷が少し軽くなるなら、それでいいかな。
最近気づいたよ。
純粋な優しさなんて、幻だったんだって。
誰かのために何かをする時、
私たちはいつも何かをもらってる。
承認だったり、優越感だったり、自己満足だったり。
電車で席を譲る。
「ありがとうございます」を期待して。
その期待も含めて、今の私の精一杯の優しさ。
完璧じゃなくても、偽善者でも、
それでも誰かの疲れた足に、休める場所をあげられる。
明日も私は、誰かに親切をする。
見返りを求めながら、優越感に浸りながら。
この不完全な善意が、
この世界の不完全な優しさの、
ほんの小さな一部になれたらいい。
コンビニの袋を持ちながら、店員が言う。
「ありがとうございます」
その言葉に、またいつもの自己満足。
でも今夜は、その偽善まで含めて受け入れられそう。
人間って、こんな歪んだ生き物だけど、
それでも誰かの重荷を持ってあげられる。
その不思議さを抱えて、
また明日も、誰かのために立ち上がる。
きっとそれも、愛の一つの形なんだ。
偽善者の、不純な、それでも確かな愛の形。