なぜ人は「親しい人」を傷つけてしまうのか-愛と暴力の境界線-
「どうせお母さんは...」
その言葉が口から出た瞬間、母の表情が曇るのが見えた。言っちゃいけない言葉だって分かってた。でも、あるいはむしろ、分かってたから言った。誰より私のことを理解してくれる人だから。誰より私の言葉を受け止めてくれる人だから。
夕食の残り物を片付けながら、さっきの会話が頭の中でリプレイされる。些細な口論だった。いつもの夕飯。いつもの愚痴。いつもの反論。でも、今日は何かが違った。私の中の何かが、一番傷つきやすい人を狙って牙を剥いた。
家族って不思議だ。他人には決して見せない優しさを持ってて、でも同時に、他人には決して向けない刃も持ってる。愛情と暴力が、まるでDNAの二重螺旋みたいに絡み合ってる。
この前、彼にも同じようなことをした。「いつもそうだよね、あなたって」って。その「いつも」には過去の全ての不満が詰まってた。その「あなたって」には、どこか見下したような響きがあった。相手のことを一番知ってるから、一番効果的な言葉が選べる。この残酷な特権。
キッチンの窓に映る自分の顔が、どこか他人みたい。
母は居間で、いつものように編み物をしている。
針の音が、今夜は刺すように響く。
台所の蛇口から水が滴る。
一滴、また一滴。
小さな音が、誰かの心を削っていく。
まるで、私の言葉みたいに。
近しい人ほど残酷になれる理由
彼女が泣いた。「あなたに言われるのが一番辛い」って。その言葉に、妙な満足感があった。他の誰が何を言っても平気な彼女が、私の言葉で泣くんだ。この歪んだ優越感。
恋愛って、相手の弱点を集めるゲームみたいだ。デートを重ねるたび、喧嘩するたび、お互いの装甲に穴を開けていく。そして、十分な数の弱点を見つけた頃、私たちは「信頼関係」なんて綺麗な言葉で、その在庫を呼ぶようになる。
「許してくれるよね?」
この言葉、最近よく使ってる。スーパーで万引きした子供が、親にだけは見逃してもらえると思うような。そうか、私って、愛を「免罪符」だと思ってたのかも。
この前、友達に愚痴った。「彼氏に酷いこと言っちゃって」って。そしたら「私もよくやるよ」って返ってきた。なんか安心した。でも、その安心感も歪んでる。他人の残酷さで、自分の残酷さを正当化してる。
職場の人には絶対言わない言葉を、家族には平気で投げつける。取引先には見せない顔を、恋人には惜しみなく見せる。何かがおかしい。近づけば近づくほど、私は私でなくなっていく。
電車で見かけた高校生。彼女に「死ね」って言いながら笑ってる。彼女も笑ってる。その距離感が、痛々しかった。でも、私だって同じことしてる。愛してるから、という名目で、相手の心を引っ掻く。
台所の棚に、昔母が使ってた湯飲みが置いてある。縁に小さな欠けがある。私が投げたせいでできた傷。許してくれた。でも、その「許してくれる」という確信が、また新しい傷を作る理由になる。
包丁の刃が、夕暮れの光を反射する。
切れ味が鋭いほど、料理は美味しくなる。
愛も、そうなのかもしれない。
愛情と暴力の紙一重
「あなたのことを思って言ってるの」
母がよく使ってた言葉。今は私が彼氏に使ってる。まるで、暴力の遺伝子みたいに。相手を思う気持ちが、いつの間にか支配欲に変わって、優しさのつもりが暴力になる。この変質の瞬間を、誰も教えてくれなかった。
友達の結婚式でふと気づいた。誓いの言葉って、よく聞くと怖い。「永遠に」「絶対に」「どんなときも」。この言葉の裏には、相手を縛り付けたい欲望が潜んでる。愛が深いほど、鎖は重くなる。
彼が遅刻した時の私の言葉。「心配したんだよ」の後に続く責め言葉。その「心配」は本物だった。でも、その本物の感情が、相手を追い詰める武器になる。この不思議な化学反応。
実家の犬を撫でながら思い出す。小さい頃、可愛くて可愛くて強く抱きしめすぎた。犬が痛がった。でも、その時の気持ちは間違いなく愛情だった。人間関係って、今でもこれの繰り返しな気がする。
「私がいなきゃダメじゃん」
彼氏にそう言った時、自分で自分の声が怖くなった。
愛してるはずなのに、どこか見下してる。
守りたいはずなのに、どこか支配したい。
カフェで見かけたカップル。
彼女が彼の携帯を勝手にチェックしてる。
「愛してるから」って言いながら。
目の前のカフェオレが、急に苦く感じた。
愛と暴力は、
糸に通された表と裏の珠みたい。
光の加減で、どちらにも見える。
そして私たちは、その糸で
お互いの首を絞めている。
指先に残る彼の携帯の触感。
さっき、また勝手にロック解除した。
「信じてないの?」って聞かれたら、
「信じてるから確認するんだ」って答えるんだろう。
この歪んだ論理の正体は、
きっと愛なんだ。
たぶん。
信頼関係という名の諸刃の剣
「私のこと、分かってるでしょ?」
この「分かってる」って言葉、結構タチが悪い。分かってるから、説明しなくていい。分かってるから、気を遣わなくていい。分かってるから、傷つかないはず。この暴力的な思い込み。
心を開けば開くほど、お互いの装甲が薄くなっていく。初対面の人には決して見せない涙も、恋人の前では簡単に流せる。でも、その代わり、他人の言葉じゃびくともしない心が、近い人の一言で簡単に崩れ落ちる。
先週、彼と喧嘩した。些細なことだった。でも、お互いが「分かってるはず」を振り回して戦った。私は私の「分かってる」で殴って、彼は彼の「分かってる」で応戦する。まるで、愛情という名の武器を持った、子供の喧嘩みたい。
友達との立ち話で、彼の悪口を言ってた。「でも、私のこと一番分かってくれてるから」って言い訳しながら。その瞬間、背後から彼の声がした。信頼関係って、こうやって崩れていくんだ。一番近い人の後ろ姿を見ながら、勝手な正当化をして。
面白いよね。誰かを信じるってことは、その人に刃を預けるようなもの。でも同時に、その人を傷つける刃も手に入れる。お互いの首筋に刃を突きつけながら、「愛してる」って言い合う。この危うい均衡。
居酒屋で隣の席から聞こえた会話。「私のこと、誰よりも分かってくれてるから結婚したのに」。離婚の相談をしてる女性の声。その「分かってる」は、いつから「分かったつもり」になったんだろう。
机の上に、彼からの古いLINE。
「君のことなら、何でも分かるよ」
その言葉を、どれだけ自分本位に解釈して、
相手を傷つけてきただろう。
窓の外、誰かが誰かと電話してる。
「私のこと、分かってくれてたよね?」
その問いの答えは、
きっと問う前から見えてた。
見えすぎてた。
また誰かを傷つけた夜
玄関の鏡に映る自分の顔が、どこか他人みたい。さっき、また母に言っちゃった。「お母さんには分からないでしょ」って。分かってるはずなのに、いや、分かってるからこそ、一番効く言葉を選んで投げつけた。
キッチンから母の気配がする。いつもの夕飯の支度。私の好きな味噌汁の匂い。そういえば、この味も「あなたの好みが分かってるから」って、母が少しずつ調節してきた結果なんだ。
スマホの画面に彼からのLINE。
「今日のこと、考えてた」
既読つけて、返信しないでおこう。
この「無視」も、彼を傷つける手段だって分かってて。
世の中に純粋な愛なんてあるのかな。
誰かを大切に思う気持ちと、
誰かを支配したい欲望は、
いつも手を繋いで歩いてる。
台所に立つ母の後ろ姿。
昔よく見た光景なのに、今は少し小さく見える。
その変化に気づいているのに、
私は相変わらず子供みたいに甘えて傷つける。
包丁で野菜を刻む音が響く。
母の料理する手が、少し震えてる。
私の言葉のせいかもしれない。
でも、夕飯の時には、
きっといつもの優しい顔で「いただきます」って言うんだろう。
玄関に置いてある古い傘。
母が「あなたが使いなさい」って譲ってくれたもの。
少し壊れかけてるのに、
私のために取っておいてくれた。
この優しさに、
どれだけの刃を突き立ててきただろう。
明日も、また誰かを傷つけるんだろう。
それでも、誰かが私を愛してくれる。
この残酷な循環の中で、
私たちは生きていく。
...なんて、この後悔すら、
また誰かを傷つける言い訳に使うのかもしれない。
夕暮れの台所に、味噌汁の香りが満ちていく。
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