なぜ人は「他人の不幸」で少し安心するのか-誰かの失敗で生きている-
深夜のスマホ画面を、上から下へ。下から上へ。誰かの失敗談に、思わず「いいね」を押しそうになって、慌てて指を止める。でも3回目に読み返していることに気づいて、少しげんなりする。
「今日も案件、落としちゃいました...」
「分かります〜私なんか先週...」
「うちなんて先月から3連続で...」
不幸自慢のような展開になっていく様子を、薄暗い部屋で眺めている。明日は早いはずなのに。見なければいいはずなのに。でも、なぜかスクロールする指が止まらない。
他人の失敗談って、不思議な魅力がある。「いいね」を押すのは憚られるけど、密かにホッとしている自分がいる。自分の小さな失敗が、少し軽くなったような気がする。人間って、本当に醜い生き物だ。
この前だって、取引先で大失態をやらかした同期の愚痴を、思いの外、熱心に聞いていた。頷きながら「そりゃ、辛かったね」なんて言いつつ、どこかで「よかった、俺じゃなくて」って思ってる。こんなの、慰めでも優しさでもない。
深夜のタイムラインには、誰かの小さな失敗が流れ続けている。それを待ち構えるように、「わかる」の文字が並ぶ。まるで、誰もが誰かの失敗を待っているみたいだ。
スマホの画面に映る自分の顔が、妙に歪んで見える。この表情、まるで誰かの不幸を待ち構えている ハイエナみたいじゃないか。でも、その自分を笑えない。だって、これが人間の本質なんだろう。誰かの失敗という、小さな踏み台の上で、やっと立っていられる。
結局、また最初の投稿まで戻ってきた。4回目だ。今度は「いいね」を押してしまおうかな。だって、どうせ明日は、誰かが私の失敗を「いいね」するんだろうから。
夜が深くなっていく。明日の失敗を予感させるような、そんな夜更けに。
慰め上手という名の、優越者
「そんな奴、忘れちゃえよ」
先週、友人の失恋話を聞きながら、妙に軽やかな声で言えてしまった自分がいる。なんなんだろう、この余裕。まるで高みから覗き込むような。
慰め上手って、たいてい性格が悪い。これ、誰かの名言かと思ったら、今、自分で書いてしまった。でも、言い得て妙かもしれない。だって、他人を慰められるってことは、自分の方がマシだって思えている証拠だ。
この前なんて、後輩の企画がボツになった話を、やけに熱心に聞いていた。「そういう時もあるよ」なんて言いながら、自分の企画が通った話を何気なく混ぜ込んでいる。この優しさの裏にある打算。気づいていないフリをしている自分が、一番タチが悪い。
SNSの「いいね」だって同じだ。誰かの失敗投稿に押す「いいね」の裏には、「よかった、私は違う」という安堵がある。共感のフリをした、こっそりとした優越感。心の中でガッツポーズを決めながら、表面上は「大変だったね」って。
面白いもので、人の相談に乗るのって、妙に心地いい。相手の話を聞きながら、自分の人生の方がちょっとだけうまくいっているような気になれる。「うんうん、それは辛かったね」って言いながら、実は「私ならこんなミスしないのに」って思ってる。
忘年会で泣く後輩に、やけに優しく声をかけられるのも、きっとそうなんだ。説教じみた慰めの言葉を並べながら、実は「俺も昔はそうだった」なんて言いたいだけ。過去形で語れる余裕を、さりげなく見せつけたい。
結局、誰かを慰めるって行為は、自分の立ち位置を確認する作業なのかもしれない。他人の不幸は、自分の人生を測るものさし。
今日も誰かの愚痴を聞きながら、密かにホッとしている自分がいる。この安堵感の正体が何なのか、気づかないフリをしている。だって、気づいてしまったら、もう人の話なんて、まともに聞けなくなりそうだから。
失敗談という名の、娯楽
テレビ局の関係者が言っていた。「視聴者が求めてるのは、成功じゃない。適度な失敗なんです」。なるほど、と思う。深夜に再放送してるドラマを見ながら、主人公の失態にニヤニヤしている自分がいた。他人事みたいに。でも、誰かに見られてたら、こっちが恥ずかしい顔だ。
「サラリーマンの悲惨な失敗談まとめ」なんてサイトが、やけに人気らしい。電車でスマホを覗き込む会社員たちが、みんなこういうのを見てるのかと思うと、なんだか愉快になる。それぞれ、誰かの失敗で今日も生きている。私も含めて。
この前、会社の成功者と呼ばれる部長が転職したって話が出回った。途端に社内が妙にザワつく。「あの人でも転職するんだ」って。この「でも」の中に、人間の本質が詰まってる気がする。完璧な人生を歩いてる人がちょっとでもつまずくと、なぜかみんなホッとする。
「頑張り過ぎない生き方」が流行ってる。本屋に行けば、そんな文字が踊ってる。でも、これって本当に自分を大切にする生き方なのかな。それとも、「頑張らない」という言い訳を、誰かに後押ししてもらいたいだけなのか。
テレビの中の誰かが失敗する。コメンテーターが「これは酷い」って言う。でも、その失敗がなかったら、そもそもその番組は存在しない。誰かの失敗で、誰かが飯を食ってる。なんだか、笑えてくる。
昨日、同期が昇進した。LINEグループが急に静かになった。みんな、その同期の失敗を待ってるんだろうな。私も含めて。だって、誰かが上手くいってる時って、妙に生きづらい。誰かの失敗を見つけるまでは。
結局、人って「普通」が好きなんだ。でも、その「普通」を決めるために、誰かの失敗が必要なんだ。今日の私の「普通」は、誰かの失敗の上に成り立ってる。明日は、私の失敗が誰かの「普通」を作るんだろう。
深夜番組で、誰かの失態を笑いながら、ふと思う。これ、明日の自分のことかもしれないのに。でも、そんな不安も、誰かの新しい失敗で打ち消されていく。
なんて便利な世の中なんだろう。誰かの失敗という名の、心の安定剤が、いつでもどこでも手に入る。
みんなダメだと信じたい夜
深夜のバーで、同期が「もう、限界かもしれない」って言う。普段は強がってる奴が、こんな弱音を吐くと、なぜか心地いい。嫌な性格だ。でも、飲み代くらいは奢ってやろうって気になる。慰めるフリをした、見下しの優しさ。
「私なんてさ」「俺なんかもっと」「うちの会社はもっとひどくて」
愚痴の応酬が始まる。まるでオークション会場みたいだ。誰が一番不幸か、誰が一番ダメか。でも、参加者は妙に生き生きしている。他人の不幸を肴に、酒が進む。
面白いもので、この手の飲み会って、必ず誰か一人、「でも、前向きに考えないとダメだよね」って言い出す奴がいる。空気を読めよ。みんなダメだと信じたいから、ここにいるんだろ。前を向きたくて集まってるんじゃない。
つい先日も、取引先との商談に失敗した話で盛り上がった。「私なんか先週...」「俺なんか先月...」って。みんな、失敗談のストックを持ってる。まるで、いつでも取り出せるお守りみたいに。
でも、よく考えたら怖い話だ。誰もが誰かの失敗を待ってる。その待ち方自体が、どこか滑稽だ。今夜の愚痴の種が、明日の誰かの慰めになる。永遠に続く、不幸のリレー。
カウンターの隅で、誰かが小声で「辞めようかな」って呟く。途端に、周りの空気が変わる。みんな、真剣な顔して「よく考えろよ」なんて言う。でも、その目は輝いている。明日の話のネタが見つかった猟師みたいな目だ。
結局、人は誰かの失敗がないと、生きていけない生き物なのかもしれない。それって、すごく寂しいことのはずなのに。でも、この寂しさを共有できる場所があるってことは、ある意味で救いなのかも。
グラスを傾けながら、思う。明日は、今夜の私の愚痴が、誰かの慰めになるんだろうか。そう考えると、なんだか、この失敗も悪くない気がしてくる。
バーテンダーが、黙ってグラスを磨いている。きっと毎晩、似たような光景を見てるんだろう。誰かの失敗で生きている人たちの、この上なく生々しい姿を。
夜のコンビニで
コンビニの雑誌コーナー。週刊誌の見出しが、誰かの失態を報じている。思わず手に取りそうになって、また自己嫌悪。でも、結局レジまで持って行ってる自分がいる。
「あの人が」「まさかの」「衝撃の」。げんなりするような見出しの数々。隣には「成功の法則」とか「勝者の習慣」みたいな本が並んでる。この落差が絶妙に笑える。結局、人は失敗する方が好きなんだ。自分も含めて。
レジで会計をしながら、ふと考える。もし明日、この週刊誌に自分の失態が載ってたら。誰かが、こうやってニヤニヤしながら読むんだろうな。その想像すらも、なんだか滑稽だ。
外に出ると、誰かがタバコを吸いながらスマホを見ている。きっと、誰かの不幸を検索してるんだろう。その横で、私は誰かの失敗を紙面で確認している。お互い様だ。
結局、人間って、誰かの失敗で生きている生き物なのかもしれない。それはそれで、すごく醜い話のはずなのに。でも、この醜さを笑える関係性こそが、生きやすさの正体なのかもしれない。
週刊誌をビニール袋に入れて、家路を急ぐ。明日は明日で、誰かが私の失敗を肴に、夜を過ごすんだろう。それもまた、人生の循環ってやつか。
人間って、本当に面白い生き物だ。完璧を求めているようで、どこかでみんなの失敗を願っている。その願いが叶わない方が、きっと生きづらいんだ。
コンビニの蛍光灯が、夜の街に投げかける明かり。その中で、誰もが誰かの失敗を、そっと待っている。
それって、案外、優しい世界なのかもしれない。
...なんて、他人の不幸で慰められている自分を、また慰めているのかもしれないけど。
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