見出し画像

なぜ「曖昧さ」に価値があるのか-曖昧という知恵-

「それで、やりますか、やりませんか?」。会議室で投げかけられた質問に、課長は微妙な表情を浮かべる。「そうですねぇ...」という言葉の後に、「前向きに検討させていただきます」という定型句が続く。その瞬間、室内の空気が少しだけ柔らかくなった。

面白いことに、明確な返答は、時として最大の暴力となる。先日、新入社員が取引先からの無理な要望に「それは無理です」とはっきり答えて、上司が慌てて火消しに走った。彼の正直さは正しかったのに、なぜかその場の空気を凍らせてしまう。

「後ほど、改めて」「少し時間をいただいて」「検討の余地はある」。これらの曖昧な返答は、まるで衝撃を和らげるエアバッグのような機能を持っている。先週も、無理難題を突きつけられた同僚が、この緩衝材のような言葉で、見事に危機を回避していた。

不思議なのは、曖昧な返答こそが、時として最も誠実な答えになることだ。人間関係も、仕事の結果も、未来も、本質的には曖昧なものなのに、私たちはなぜかイエスかノーかの二択を求めたがる。

夜の会議室で、また新しい案件の相談が始まる。「どうしましょうか」という問いに、誰もが曖昧な言葉で応じる。その様子は、一見非効率に見えて、実は最も賢明な知恵なのかもしれない。

「和を保つ曖昧さ」

昨日の企画会議。営業部の提案に対して、製造部が難色を示していた。その時、部長が「なるほど、両方の意見に一理ありますね」と切り出した。一見、何も解決していないような発言。でも不思議と、その後の議論は柔らかな方向に向かっていった。

面白いことに、「これが正しい」という明確な主張は、往々にして物事を行き詰まらせる。先日の取引先との交渉でも、お互いの条件が折り合わない状況で、誰かが「今後の関係性を踏まえて」と言った途端、妙な共通理解が生まれた。その曖昧さは、まるで和やかな霧のように、対立の角を丸くしていく。

「そうですねぇ...」という言葉には、実は複雑な機能が隠されている。肯定でもなく、否定でもなく、かといって回避でもない。先輩の「微妙な感じですねぇ」という一言で、チーム内の意見対立が不思議と和らいでいくのを何度も目にしてきた。

不思議なのは、結論を急がないことで、かえって事態が進展することだ。「方向性としては」「基本的には」「原則として」。これらの言葉は、一見すると責任逃れのように聞こえる。でも、その曖昧さがあるからこそ、誰もが合意できる着地点を見つけられる。

夜のオフィスで、また新しい案件の調整が始まる。「どちらが正しいか」ではなく、「どちらも活かせないか」という視点。その曖昧さの中に、日本的な知恵が宿っているのかもしれない。

「グレーゾーンという居場所」

「これって、正しいんですか? 間違ってるんですか?」。新入社員の素朴な質問に、課長は珈琲を一口飲んでから答えた。「うーん、どちらとも言えるんですよねぇ」。その答えは、一見責任逃れのように聞こえる。でも、その曖昧さの中にこそ、最も正直な答えが潜んでいた。

面白いことに、日本語には「どちらでもある」という状態を表現する言葉が豊富にある。「微妙」「何となく」「まあまあ」「それなり」。これらは単なる言葉の曖昧さではなく、現実を見る目の繊細さなのかもしれない。先日も、プロジェクトの評価で「まずまずの成果」という表現が使われた。その言葉の中に、成功と失敗が同居している。

「空気を読む」という言葉は、よく批判される。でも、その能力は、白黒つけることのできない状況で、最適な着地点を見つける技術でもある。会議で対立する意見の間に、誰かが「まあ、そういう見方もありますよね」と言った途端、硬かった空気が柔らかくなっていく。

不思議なのは、グレーゾーンにこそ、人間らしい居心地の良さがあることだ。完璧か駄目か、善か悪か、白か黒か。そんな極端な二分法では捉えきれない豊かさが、曖昧さの中には存在している。

夜の帰り道、同僚と交わした「それなりに」という言葉が心に残る。その表現の中に、厳密さを求めすぎない優しさと、現実を受け入れる賢さが同居していた。

「分散される責任」

「この件、誰が決めたんですか?」という取引先からの問い合わせに、部長は穏やかに答えた。「社内で十分に検討した結果」。その言葉の中に、個人の責任が組織の中に溶けていく様が見える。決定は、いつの間にか「皆で」下したことになっている。

面白いのは、この責任の分散が、必ずしも無責任を意味しないことだ。むしろ、全員が少しずつ責任を負うことで、意思決定はより慎重になる。先日の新規プロジェクトでも、根回しと事前調整で二ヶ月を費やした。非効率に見えるこのプロセスの中で、実は最大のリスクが回避されていた。

「取り急ぎ、関係部署と相談させていただきます」。この一見もどかしい返答の裏には、組織の知恵が隠されている。誰か一人に責任が集中せず、かといって責任が消えてなくなるわけでもない。それは、まるで水面に落ちた墨が、少しずつ広がっていくように。

不思議なのは、決定権が曖昧になることで、かえって確かな決定が生まれることだ。オフィスの廊下や喫煙所での立ち話、メールの細かなやり取り。この「非公式」な場での調整が、実は最も「公式」な合意形成だったりする。

夜の会議室で、また新しい案件の根回しが始まる。「一応」「とりあえず」という言葉の連なりの中に、日本的な組織の叡智が息づいている。

「曖昧さの行方」

外資系企業との会議で、「Yes or No」を求められる場面があった。その瞬間、日本側の参加者たちが微妙な表情を浮かべる。「It depends...」と切り出した課長の言葉に、通訳が思わず苦笑する。曖昧さを英語に翻訳することの難しさを、誰もが感じていた。

面白いことに,'明確'を求めるグローバルスタンダードの前で、日本的な曖昧さは、むしろその価値を際立たせている。先日のオンライン会議で、海外の取引先が「日本企業との付き合いは、数字以外の何かが大切だと気づいた」と語っていた。その「何か」こそが、曖昧さが育んできた関係性の豊かさなのかもしれない。

DXの波が押し寄せる中、曖昧さを許容しない仕組みが増えている。チェックボックスとプルダウンメニュー。二択のアンケート。デジタル化は、グレーゾーンを嫌う。でも、人間の感情や判断は、そう簡単に白黒つかない。メールの最後に付け加える「と思います」という言葉には、テクノロジーでは代替できない知恵が宿っている。

不思議なのは、効率化が進めば進むほど、かえって曖昧さの価値が見えてくることだ。AIが即座に答えを出す時代だからこそ、「どちらとも言えない」と立ち止まれる感性が、より重要になっているのかもしれない。

夜の東京で、ネオンが曖昧な光を投げかける。白でも黒でもない、その中間の輝きの中に、これからの時代のヒントが隠されているような気がした。

いいなと思ったら応援しよう!