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【考察】-なぜ人は孤独を恐れるのか。-コンビニの夜と、僕らの孤独-

深夜3時のコンビニって、なんというか、この世の果てみたいな場所だ。蛍光灯の下で、売れ残ったおにぎりたちが心なしか憂鬱そうな表情を浮かべている。レジの後ろで流れる商品案内のBGMも、この時間になると妙にメランコリックに聞こえる。

「あら、また来たの?」

レジの女の子が、中年のサラリーマンに話しかける。彼は毎晩のように、缶コーヒーを一本買いに来るらしい。でも、明らかにコーヒーは口実だ。彼が本当に求めているのは、この数分間の他愛もない会話なんだろう。

「いやぁ、今日も残業でさ。家に帰ってもテレビ見て寝るだけだし」

レジ打ちの音が響く。ピッ。ピッ。まるで深夜の救急病棟の心電図みたいだ。

イートインコーナーには、大学生らしき若者が一人。カップラーメンの前で、スマホを無限にスクロールしている。もう二時間は座っているんじゃないだろうか。カップラーメンの湯気は、とうに消えている。

僕も夜勤明けで立ち寄っただけのはずが、なぜかおでんの前で足が止まる。大根一切れを取るのに、異常に時間がかかっている自分に気づく。家に帰れば、誰もいない部屋が待っている。それを少しでも先延ばしにしたいような、そんな気持ちが足を止めているのかもしれない。

ふと気づけば、このコンビニには「居場所を探す人々」が集まっている。深夜のコンビニは、なんだか人間の孤独を映し出す水槽みたいだ。誰もが、自分なりの理由で、この明るすぎる箱の中に留まろうとしている。

レジ横の雑誌コーナーに目をやると、表紙には「人付き合いが苦手な人のための処方箋」なんて特集が組まれている。つい、苦笑してしまう。こんな時間に、こんな場所で、みんな同じように孤独と向き合っているというのに。

外は既に白んできている。朝が近づいているのか、それとも夜が終わろうとしているのか。どっちでもいいような気がする。ただ、このコンビニの中で、僕らは何かを怖がっている。それは本当に孤独なのだろうか。それとも...。

「お会計、298円になります」

レジの女の子の声で、思考が途切れる。大根一切れを買うために、こんなに長い時間を使ってしまった。まるで、この場所から出ていくのが怖いかのように。

自身の経験との照らし合わせ

一人暮らしを始めて、もう五年になる。最初の頃は必死だった。誰かと話さない日があると、自分の声が錆付いていくような気がして不安になった。一日中、BGMとしてテレビをつけっぱなしにしていた時期もある。他人の会話の残り香みたいなものが、部屋に漂っているだけでも、なんとなく安心できた。

SNSにハマったのもその頃だ。電車の中でも、歩きながらでも、食事中でも、画面の中の誰かとつながっていないと落ち着かなかった。「いいね」という名の架空の温もりを、まるでニコチン中毒者のように求めていた。

休日に誰とも話さなかった日の夜、スマホの通話履歴を見返して落ち込んでいる自分に気づいて、ゾッとしたことがある。これって、なんだか変じゃないか。人間は、そもそもずっと誰かと話していなければいけない生き物だったっけ?

昔の人は違っただろう。山奥の庵で何年も独り暮らしをした歌人とか、灯台守とか。彼らは孤独を愛していたのか、それとも耐えていたのか。それにしても、現代人の僕らときたら。コンビニのイートインで誰かが隣に座っただけでホッとする。エレベーターで知らない人と二人きりになると、妙に気まずくなる。

先日、スマホを家に忘れて出勤してしまった時は、まるで裸で外出したような感覚に襲われた。途中で取りに帰ろうかとマジで悩んだ。結局、その日は誰ともLINEできなかったけれど、地球は普通に回り続けていた。

でも、これって本当に寂しさなのかな。それとも、寂しくない自分に出会うことへの恐れなのか。孤独に耐えられない自分を、誰かに見られることへの恐れなのか。

まるで、自分の影から逃げ出そうとしているみたいだ。でも影って、光があれば必ずついてくるものじゃないか。それなのに僕らは、なぜこうも必死に影との距離を取ろうとするんだろう。

そういえば、部屋の電気を消して、夜の闇に身を委ねてみると、妙な安心感に包まれることがある。見えないものを怖がる必要もなければ、見られることを意識する必要もない。暗闇の中では、孤独も、群衆も、同じ重さなのかもしれない。

社会観察からの考察

昨日、久しぶりにファミレスに入った。「お一人様ですか?」って聞かれて、なんだかやましい気分になった。まるで万引きでもしたかのような後ろめたさ。テーブルに着くなり、反射的にスマホを取り出している自分がいた。画面を見ている振りをして、結局、何も見ていない。

周りを見渡すと、みんな同じような防衛姿勢だ。一人で座っている人は例外なく、スマホという名の盾を掲げている。食事に集中している人なんて、絶滅危惧種くらい珍しい。きっと、「一人でご飯を食べている暇人」という烙印を押されるのが怖いんだろう。いや、自分に押されるのが怖いのかもしれない。

電車の中だって同じだ。かつて車内は、新聞や週刊誌で埋め尽くされていた。今は首から下に垂れた頭のオンパレード。まるでスマホに祈りを捧げているような光景。でも、画面の中で必死にスクロールしている人たちの目は、どこか虚ろだ。誰かとつながっているようで、実は誰ともつながっていない。

「お客様、よろしければLINEお友達になっていただけませんか?」

この前、行きつけの美容院でそんなことを言われた。美容師さんも必死なんだろう。でも、それって本当に「友達」なのかな。SNSの中で膨れ上がる人脈と、実際に会って話せる人の数は、きっと反比例しているはずだ。

日本人って、特に「一人」に厳しい気がする。居酒屋だって、「おひとりさま歓迎!」って看板を出さないと、一人では入りづらい。カラオケも、サウナも、どこもかしこも「ソロ活」を推奨する時代。でも、それって逆説的に、一人でいることへの社会的なプレッシャーの表れなんじゃないだろうか。

スマホを見ながら歩いている人に、よくぶつかりそうになる。彼らは本当に急ぎの連絡があるわけじゃない。ただ、周りの視線から逃れるために、画面に逃げ込んでいるだけ。まるで、透明人間になれる魔法のアイテムみたいに。

人混みの中で、誰もが必死に孤独から逃げ出そうとしている。でも、その必死さこそが、実は最大の孤独なのかもしれない。皮肉なもんだ。

孤独を恐れる本質への接近

先日、実家の納戸を片付けていたら、小学生の頃の図鑑が出てきた。サバンナの動物たちのページを開くと、群れで行動するシマウマやヌーの写真が載っていた。「群れることで、天敵から身を守る」──そんな説明書きが、妙に心に引っかかった。

考えてみれば、人間だって同じなのかもしれない。この世界で、たった一人で生き抜くのは至難の業だ。誰かと一緒にいることは、DNAレベルで刷り込まれた生存戦略なのかもしれない。だとすれば、孤独を恐れるのは、ある意味で正常な反応とも言える。

でも、現代の孤独は少し違う気がする。スマホの通知音に踊らされ、SNSの「いいね」を数える日々。かつての孤独は「誰とも会えない」という物理的なものだった。でも今は、誰とでも繋がれる時代。なのに、その「繋がり」が、より深い孤独を生み出している。

「最近、人と話してないな」って思って、通話履歴を見返す。でも、LINEの履歴は山盛りだ。音声通話よりもボイスメッセージ。対面での会話よりもビデオ通話。便利になったはずなのに、どこか歪んでいる。まるで、人との関係を「最適化」しようとしているみたいだ。

この前、電車で見かけた高校生たちが印象的だった。隣同士で座っているのに、LINEでやり取りしている。声を出して話すことが、なんだか恥ずかしいらしい。でも、その様子は滑稽というより、どこか切なかった。

結局のところ、僕らは孤独そのものを恐れているんじゃない。孤独と向き合う自分自身が怖いんだ。静寂の中で、自分の内側から聞こえてくる声に耳を傾けることが。その声が何を語り出すのかが。

だから必死になる。誰かとつながっているという幻想にしがみつく。でも、その必死さが、かえって本当の繋がりを遠ざけているような気もする。

古い図鑑の中のシマウマたちは、ただそこにいた。SNSもスマホも持たずに、ただ群れていた。その姿が、今の僕たちよりも、どこかずっと自然に見える。なんだか笑えてくる。これほど便利になった世の中で、僕らは昔より孤独と上手く付き合えなくなっているのかもしれない。

夜明けのコンビニ

コンビニを出た瞬間、早朝の冷たい空気が頬を撫でる。空はまだ暗いけれど、どこか明るさを予感させる。そんな中、ジョギングウェア姿の男性が、一人で走っていくのが見えた。

規則正しい足音が、静寂を心地よく破っていく。あれって、孤独なのかな。それとも、自由なのかな。

昔、誰かが言っていた。「孤独は自由の代償だ」って。でも、今の僕には、それが逆に思える。自由であることは、孤独と向き合える強さの代償なんじゃないか。

コンビニの袋の中の大根一切れが、やけに重たく感じる。こんな時間に、こんなものを買って帰る人生って、なんだか滑稽だ。でも、それを笑える自分がいることに、少しだけ救われる気がする。

空が少しずつ白んでいく。誰かと一緒じゃないと不安で、でも、誰かと一緒だと息苦しい。そんな矛盾を抱えながら、僕らは生きている。完璧な解決策なんて、きっとないんだ。

あのジョギングの人は、もう見えなくなった。けれど、規則正しい足音の余韻だけが、まだ耳に残っている。そうか、これって案外シンプルな話なのかもしれない。

僕らは孤独が怖いんじゃない。孤独な自分を受け入れることが怖いだけなんだ。でも、それって言い換えれば、まだ自分のことを十分に信頼できていないってことかもしれない。

部屋に戻る。カーテンを開けると、朝日が少しずつ顔を出し始めている。スマホの電源を切って、しばらく窓の外を眺めてみる。意外なことに、心地よい静けさが、部屋の中を満たしていく。

明日からは、また慌ただしい日常が始まる。きっと僕は相変わらず、他人の目を気にして、スマホをいじって、誰かとの繋がりを求めて右往左往するんだろう。

でも、たまにはいいかもしれない。こうして、自分の影とゆっくり向き合うのも。

おでんの大根を温め直して、一人の朝食。今日は、これはこれで、悪くない。

そう思えた瞬間、不思議と、孤独の輪郭が少しだけぼやけて見えた気がした。

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