なぜ人は「謝罪」を求めるのか-謝罪という名の、終わらない儀式-
コンビニのレジで、店員が釣り銭を間違えた。たった50円の違い。でも途端に始まる、延々とした謝罪の儀式。
「大変申し訳ございません」
「申し訳ございません」
「申し訳...」
聞いてる方が疲れてくる。いや、もういいよ。50円戻ってきたし。でも、なぜか客は最後まで謝罪を聞こうとする。まるで、この謝罪の儀式が終わらないと、許す権利が行使できないみたいな。
面白いもので、この前は自分が同じような場面で、謝罪を要求する側にいた。財布から小銭を取り出す店員の手が遅いって理由で。たった10秒の遅れに、心の中で「謝れよ」って思ってる自分がいた。なんて器の小さい人間なんだ。
レジの横に貼ってある「不手際がございましたら、謝罪させていただきます」って張り紙。この「謝罪させていただきます」っていう回りくどい言い方も、なんかもう儀式の一部になってる。誰が誰に何を「させていただく」んだろう。
この前、電車で席を譲ってもらった時の「すみません」。コンビニで待ち合わせの友達を探す時の「すみません」。傘が相手に当たりそうになった時の「すみません」。日本人って、呼吸するように謝罪してる。
でも、この形骸化した謝罪の儀式の中で、たまに本物の謝罪を見かける。この前、小学生が友達の消しゴムを無くして泣きながら謝ってた。あれは儀式じゃなかった。見てて胸が痛くなった。大人になるって、こういう素直な謝罪ができなくなることなのかな。
レジの女の子、まだ謝ってる。
もう10回目の「申し訳ございません」。
きっと、マニュアルにそう書いてあるんだろう。
でも、このマニュアル、誰が書いたんだろう。
謝罪を求める側?それとも謝罪する側?
結局、私たちは誰に、何を謝らせたいんだろう。
形式的な謝罪の正体
テレビに映る記者会見。スーツ姿の役員が90度で頭を下げている。時計で計ってないけど、たぶん7秒くらい。この「謝罪の角度と時間」っていう、誰も教えてくれないのに、みんなが知ってる暗黙の了解。
「深くお詫び申し上げます」
「重ねてお詫び申し上げます」
「心よりお詫び申し上げます」
この「お詫び」の品揃えの豊富さ。まるでデパートのお歳暮カタログみたい。どれを選んでも中身は同じなのに、なぜかランク付けされている。で、視聴者の私たちは、その謝罪の品質を品評する審査員になる。
この前、上司が部下を怒鳴ってた。「謝ったら許してやる」って。この「許してやる」って上から目線の謝罪要求。謝罪を武器にする大人のずるさ。子供の頃は、こんな複雑な謝罪は要求しなかったよな。
面白いもので、謝罪会見を見ながら「もっと頭を下げろよ」って思ってる自分がいる。他人の不幸のチャンネルを見ながら、お菓子でも食べるように、他人の謝罪を消費している。この底知れない悪趣味。
会社でも「謝罪の作法」がある。メールなら件名に「お詫び」って入れて、本文は3段落以上で。一段落目で状況説明、二段落目で謝罪、三段落目で再発防止。この形式美。書いてる本人も、読んでる相手も、どこか演技してる。
昔、友達に「ごめん」って言ったら、「それ、心から謝ってる?」って問い詰められた。心からも何も、もう謝ってるじゃん。でも、その「心から」っていう追加要求に、すぐ応えちゃう自分がいた。この謝罪の品質管理。
結局、私たちは形式的な謝罪を求めながら、その形式さを批判している。この矛盾した欲望。
そういえば、この文章書いてる間にも、隣の席の人に「すみません」って三回くらい言ってた。
なんの謝罪だったかもう覚えてない。
これって、もはや呼吸みたいなもんだよな。
心からの謝罪の不思議
子供の頃、友達の色鉛筆を折っちゃった時のこと。心臓がバクバクして、涙が出そうで、喉が痛くて。「ごめんなさい」って言葉が、砂を飲み込むみたいに出てこなかった。あの頃は、謝罪に純度100%の後悔が必要だった。
今じゃ違う。「申し訳ありません」の連発が、メールの「いつもお世話になっております」くらいの軽さになってる。この謝罪のインフレーション。
でも面白いことに、形だけでも謝罪すると、なんとなく気が楽になる。この不思議な解放感。謝罪って、誰かを許すためのものじゃなくて、自分を許すための儀式なのかもしれない。
先日、同僚が「心からごめんなさい」って謝ってきた。でも、その「心から」って単語が付いた時点で、なんか違う気がした。本当に心からなら、わざわざ「心から」って言わなくない?これって「このコーヒー、マジでうまい!」って言う奴が、本当に美味いと思ってないのと同じような。
テレビで芸能人が謝罪してる。「深く反省しております」。この「深く」って修飾語、誰が定規で測るんだろう。反省の深さを競うオリンピックでもあるまいし。
子供の頃は分かってたはずなのに。謝罪は、ただの「ごめんなさい」でよかった。今の大人たちは、その純度100%の言葉を、何度も薄めて使い回してる。
この前、部下が企画書のミスを謝りに来た。「申し訳ございません」って言いながら、スマホをチラ見してる。その瞬間、「まあ、誰でもミスはするよ」って許しの言葉が、喉元で凍り付いた。なんか、馬鹿にされてる気がした。
そうか、謝罪って、相手の目を見て、自分の心臓の音を聞きながら、やっと絞り出せる言葉だったはず。それが今や、コピペできる定型文になってる。
結局、心からの謝罪なんて、コンビニの商品みたいに、いつでも取り出せるわけじゃない。
だから私たちは、その代用品で我慢することにした。
...って、これ自体が、一番の謝罪が必要な行為なのかもしれない。
許しと謝罪の奇妙な関係
「謝ったんだから許せよ」
この言葉の暴力性について、考えたことある?謝罪を武器にして、許しを強要する。まるで、スーパーのポイントカードみたいに。謝罪ポイントが溜まったら、許しと交換できます、みたいな。
この前、SNSで見た謝罪動画。「いいね」の数で許されるかどうかが決まるみたいな空気。で、コメント欄には「まだ謝り足りない」「もっと反省しろ」。私たちっていつから、謝罪の品質管理部長になったんだろう。
面白いもので、許す側も大変なんだよな。許すタイミングを計って、許す言葉を選んで。早すぎると甘すぎるって思われるし、遅すぎると意地悪って思われる。この許しのタイムマネジメント。
「もう許してあげなよ」
こういう第三者からの助言も、なんかむかつく。勝手に謝罪と許しの仲介業者面しやがって。っていうか、許すか許さないかは、私の心の整理の問題でしょ。
昨日なんて、会社で後輩が「すみません」って言いながらミスの報告してきた。その「すみません」が薄すぎて、思わず「ほんとに反省してる?」って言いそうになった。でも、その瞬間、自分が昔嫌いだった上司と同じ顔してることに気づいた。ゾッとした。
謝罪と許しって、本来は心と心の会話のはずなのに。いつの間にか、みんなでルールブック作って、採点し合ってる。「この謝罪は85点!もうちょっと頭を下げれば90点いけた!」みたいな。
そういえば、子供の頃は違った。「ごめんね」「いいよ」。たったこれだけの会話で、明日には一緒に遊んでた。大人になるって、この単純な方程式を、わざと複雑にすることなのかな。
結局、誰のための謝罪で、誰のための許しなんだろう。
...って考えてたら、また誰かに「すみません」って言ってた。
この「すみません」も、誰かの採点対象になるんだろうな。
夜の公園のベンチで
公園で子供たちがけんかしてる。ボールの取り合いか何か。と思ったら、もう仲直りしてる。「ごめん」「いいよ」。10秒くらいの出来事。この取引時間の短さよ。
隣のベンチでは、カップルが仲直りの儀式してる。「本当に本当に、ごめんなさい」って彼が言ってるけど、その「本当に」の数で誠意が測れるわけでもない。
そういや、昨日も謝ってた。電車で席を譲ってもらった時の「すみません」。コンビニの店員さんとすれ違った時の「すみません」。傘が相手に当たりそうになった時の「すみません」。全部、本当は謝罪じゃない言葉なのに。
公園の砂場で、また別の子供たちが謝罪の練習してる。
「ごめんなさい」
「そうそう、もっと頭を下げて」
おい、誰だよ。子供に謝罪の型を教え込んでるの。...って思ったら、私も昨日、後輩に「もうちょっと丁寧に謝ったほうがいいよ」なんて言ってた。この伝染する謝罪強迫。
夜の公園に、誰かの「すみません」って声が響く。きっと、この瞬間も、日本中のどこかで誰かが謝ってる。誰かが許してる。誰かが謝罪を要求してる。この永遠に続く謝罪のリレー。
子供たちは帰っていく。あんなに純度100%だった「ごめんなさい」は、大人になるにつれて薄まっていく。でも、その希釈された謝罪でも、私たちは何かを伝えようとしている。
ベンチから立ち上がる時、隣の人とぶつかりそうになった。
思わず「すみません」って言った。
今度は、この「すみません」の純度は何%だったんだろう。
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