自身の太陽を生きる。
こんにちは。
5月に木星が牡牛座から去り双子座へ移り暫くすると、急に仕事が忙しくなりました。
私は、フリーランスで主にweb制作業をしていますが、その他にも、副業をしていて、今年の春は、PC環境のセキュリティの更新、レンタルサーバー等の年間更新、税金各種の支払いなどもあり、思いの外出費がかさんじゃったなーなどと考えて、以前もやったことのある仕事をちょこっと入れるつもりが、予期しないタイミングで本業の一部も始動し始めたりと、次々と思いがけない業務が重なってしまい急にタイトなスケジュールになって大慌ての7月を迎えました。
でも、よくよく考えてみると、私はMCが双子座にあるので、木星の双子座入りがMCに影響しているのかもしないと考えたりしています。
太陽双子座の友人も、公私ともども、なかなか忙しそうです。
と、慌ただしく時間を過ごしていると、一時退院した実家の妹の容態が最近また悪化し始めました。
妹は、はっきりした原因はよくわかりませんが、自身の人格を失うことがあり、最近は幻聴、幻覚、他の人格に支配されている様な自傷行為などをしばしば繰り返し、まともに眠れません。
同居している両親も眠れない日々が続き、憔悴しきっている様子で、ボケが入ったり、疲れの限界がきている様で、再び私が実家のケアに入ったりして、忙しさが加速している日常です。
何故妹がそうなってしまったのかということは、わざわざ説明するまでもないとは思いますが、前回の投稿で自分の考察を記述しました。
両親も確かにかつては、体力もあり、記憶もしっかりして日常を過ごしていた様に思いましたが、もう年をとっているわけですから、ボケ始めたとしても何もおかしくはありませんね。
もう父母とも齢85歳前後ともなれば、海王星の年齢域です。
もう、その年齢域になれば、いつまでも、この世的なこと(土星までのこと)を守ったり、覚えていたりすることも必要なくなっていく年なのかもしれません。
年をとるにつれて今まで身につけてきてきた技能や、知識などを忘れていくのは寂しいことだと父は言っていましたが、そんなこともあの世へは持っていけませんし、まして、社会的な地位や、お金など、物質的なものも持ってはいけません。
どんどん手放して、宇宙へ返っていく準備を始める年齢域です。
自分の年でもある程度そうですが、「死ぬこと」は意識の中に入ってくることがあります。
自分の今を決める行動として「死ぬ時後悔するかどうか」ということが大前提に来る様になり、自分なりに順序立てて決めた、やるべき道筋があったとしても、途中変更することもよく出てくる様になりました。
若い頃は私は、自分の人生を乗っ取られるんじゃないかと、両親に対しては危機感を感じたりして、高校卒業と同時に早々に家を出ましたので、今からまた親と関わるということは、不本意ではありますが、やはり自分が死ぬ時後悔することが出てくるかもしれないと思ったりもして、実家とは距離をとりながら関わるということを選んでいます。
私の妹へのアクションとして、「このまま人生を終わっていいのか」ということをずっと問いかけていて、妹には、自分の得意なことをやり続けることを勧めています。
妹は私からしたら羨ましい才能や可能性も実際持ち合わせているかもしれないのに、開花させずに終わらせていいのかということです。
でも、「それでいい」という判断も、あるかもしれません。
自分自身の中で「生きたい、息をして生きていきたい」という気持ちが沸き起こらなければ、生物は、そこで終わってしまうのかもしれません。
それが、この土星が護る地球の、あらゆる生命に対して課せられている万物の法則なのかもしれません。
他の生き物が命を肩代わりすることはできません。
父は、これまでの自分のやり方が間違っていたかもしれないと、この1年半に起こった出来事に対して事実を受け入れ始めましたが、年齢的に、もういまさら地道な土星的な、ドメスティックの殺伐としたことに向き合う気力は残ってなさげです。
母は相変わらず、妹に対して「寒いでしょう」と言っては上着を着せてあげたり、せっせとお昼ごはんを準備してあげたり。。
寒けりゃ自分で着る。腹がへりゃ自分で食う。
それも大人になれば自分の力で(稼いで)、そのことをしていくのが当たり前なのだと思うのですが、私が何度「甘やかすな」と言っても母は頑固に聞き入れはしません。
その結果というわけかどうかは、はっきりはわかりませんが、妹は全てにおいて受動的で自力で何とかする術がわからなくなってしまっています。
それどころか周囲に対しては「やってもらって当たり前」という意識さえ見受けられます。
でも母はおそらく、自分の子供たちに対しての意識を変えるということは今までの自分の生き方を否定することに繋がり受け入れ難いと感じているのかもしれません。
あるいはそれまで保っていた何かが崩壊するのかもしれません。
母にとっては子育てが人生の全てだったのだとしたら。
あるいは、自分が今まで手をかけていたのに、それを急に放したら妹は突き放されたと困惑することになるのではと考えて、行動を最後まで首尾一貫させているのかもしれません。
おそらく、両親は、死ぬまで妹のことは心配しつづけるでしょう。
でも、もしかして母は自分が死ぬ時は笑顔で死んでいくのかもしれないとふと考えたりします。
私以外の子供に対しては自分の愛情(エゴ)を貫いたとして。
私は母のそれを残念ながら受け取ることはできませんでしたが、妹と弟は、それを当然の様に受け取っています。
人に何かしてあげるという行為は一見尊い様に見えたりしますが、やってあげたいと感じる気持ちはその人のものであり、相手によるものではないですね。
そのことで相手が良い影響を受ける。とか、行きたい方向へと進む。とか、相手にとってポジティブな意味のある方向に進んでいくのであれば、本当にそれは愛ある行為と言えるかもしれません。
ただ、そうじゃない場合、人に何かしてあげるという行為自体は、何かしてあげたいというその人の、その気持ちを優先させただけの単なる「エゴ」で終わってしまうこともあると私は思います。
母は、弟や妹に尽くしたいという自分の気持ちを最優先しているのだとすれば、幸せに死んでいくことができるのかもしれません。
後に残された家族のことなど、どうでもいいということになるのかなと考えたりしますが、それが母の女性としての感情なんだと思います。
多分、全体のことなんて考えられないのでしょう。
母を見ていたら、子供の痛みを自分の痛みの様に感じていると思うことがあり、子とは「一心同体」と感じているのではないかと思う面があります。
この「一心同体」の感覚は私の父にはない気がしますし、他でも男性では見かけた経験はない気がします。
もちろん中には子に対してそういう男性もいるとは思いますが。
おそらく母親というものは子に対しては、自分の肉体を分けて出てきたという認識があるからなのかなと思ったりします。
この私の母みたいなタイプの女性は今まで何度か見ていますが、彼女たちは子供の一部は自分自身、自分の一部は子供そのものという感覚が、どこかある気がします。
その共通しているところは「よかれ」と思い込んでやっている自分の行為に、微塵の疑いもないということだったり(つまり子の意思を無視。自分の一部だから?)、子の名誉なことをまるで自分の名誉として話しをしたりする(つまり自分の分身だから?)。。などです。
私の母にとって、子が自ら母というものを切り捨てない限り、子はずっと自分の一部として繋がっている存在で、今更意識の軌道修正は難しいのでしょう。
妹に対してはどこまでも今の姿勢で支えていくつもりなのだと思います。
「死なばもろとも」という言葉がありますが、母には、底の底にある強い覚悟の様なものさえうかがえます。
母親(グレート・マザー)とは驚異です。
私も母親だし自分にもそんな部分が全くないとは言えませんが、親子間でも、魂は全く別で、別の場所から来て、別の場所へ返って行くものだと思っています。
今世に生まれて来る前にご縁はあったということもあるかもしれませんが。
しかし私にも太陽の様に明るく、懐の深い母に、何度助けられたかという記憶も確かにありますので、やはり母が死ぬ時は笑顔にしてあげたいとは思います。
なので、私は、自分の状況を最優先にします。
長々と書きましたが、ここからが自分の太陽を生きる話です。
私は太陽牡牛座なのですが、自分の太陽らしい生き方をしたいと思います。
牡牛座は豊かさと安定を表すサインになりますが、私の牡牛座10度のサビアンシンボルは「赤十字の看護師」になります。
1度前のサビアンシンボルの「飾られたクリスマスツリー」は、自分と自分の周囲の大切な人たちと、豊かなクリスマスを迎えるために、ただひたすら童話の「蟻とキリギリス」の蟻の様なコツコツとした努力を繰り返し、豊かさや自身の資質を蓄えるという意味合いの牡牛座としての「余裕」を保とうとするサビアンシンボルです。
一見自分のことしか考えていない風にも映りますが、牡牛座はこの余裕がないとだめな気がしますね。
余裕というのはお金や、物質的なことだけに限らないと思います。
私は自分を犠牲にしてまで家族に尽くすつもりはないです。
人はこの世に生まれてくるのは、それなりに意味があると思うのですが、その意味は人それぞれ違っていて、各々、その人にとっての経験するべきこととして生まれてくる前に自分で設定してこの世に生まれて来ているんじゃないかと私は思っています。
なので、私にとってはそのことをするのが最優先で、そのことを反故にして人と共倒れするということは論外です。
でも、自分が生まれてきたことの意味や、経験したい事柄、経験したい感情などをしっかり捉えて、そのことを一つ一つ味わいながら、やっていれば、きっと共倒れではなく、少しは人を支えてあげることができるんじゃないかと思えるのです。
それは義理の父母に対しても全く同じです。
自分に余裕ができれば、やれることは出来る限りやります。
まずは自分優先。 余裕がなければやらない。
そうすれば、マイナスな面を受けたとしても自分に余裕があれば、(精神面でも、物質面でも)受け止められるし、嫌なこともすぐ忘れます。
親のことに関しては、「誰もが通る道」などとした考え方も世間様ではある様ですが、私は安易にそんな通例に惑わされたりはしない。
人それぞれ道は違います。
私にとっては、母の笑顔が見たければ、自分の魂を充足させて、兎にも角にも余裕を持つことです。
それも全て母のためではなく自分が死ぬ時後悔しないためです。
長い文章を読んでいただきありがとうございました。