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第二話「加藤和彦とはしだのりひこの出会い」
加藤:僕がのりちゃんと出会ったのは1965年のこと。その頃、のりちゃんは、1964年に同じ大学(同志社)の藤原 洪太クン、田平 義沼クンとドゥーディ・ランブラーズを組んでいた。僕は、実家が近かった龍谷大学へ(祖父が仏師だったため、後を継ぐ気持ち半分で仏教系の大学へ)
この頃、僕はフォークルを組んで、アマチュアで活動していた。
この年、東京を中心に「モダン・フォーク」が流行。各地では、フーテナニー・コンサートが開催され文化放送ではビッグ・テナニーがオンエアされ、エレキとは異なるブームがあった。ただレコードに関しては、後にブロードサイドフォーとなる前身、ブロードサイド・スリーのフォークアルバムくらいしか発売されていなかったのである。まだまだ、既成の音楽家たちによる歌謡曲が幅を広げる時代であった。
その頃、なかなかフォーク・グループの演奏の場がなく、フォークルのマネージャー的存在であだた北山クンが演奏の場を求めてその才能を発揮する。ここで、既に京都のフォーク界では花形的存在であったドゥーディ・ランブラーズのメンバーである端田宣彦(ハシダノリヒコ)と巡り会うのである。
そして、京都のフォーク・コンサートに出演するにあたって必ず団体に属さなければならず…
北山:演奏の場を設けてほしい。
そこで、端田中心に立ち上げた「AFL(アソシエイテッド・フォーク・ローリスト)」という団体
めでたく、フォークルもそのオーディションに合格。そこから活動が始まる。
1965年
加藤 和彦の12弦ギター
北山 修の富んだMC
平沼 義男と芦田 雅喜の澄んだテナー声
バリトンが奏でるハーモニー。
これだけで、フォークルはその存在を知らしめていくことになる。
1966年:音楽界では、ビートルズが来日
当時、アメリカンフォークのコピーが主流で
レバートリーは、PPM、キングストン・トリオ、ブラザーズフォーの作品がほとんどであった。このとき、フォークルは笑いに着目し、当時放映されていたNHKの「ひょっこりひょうたん島」の主題歌をレパートリに少しアレンジを加え演奏したのがまた大受けとなった。
また、「女の娘は強い」(アメリカンアレンジ)
「雨よ降らないで」の途中には、ナンセンス・トリオノネタを挟んだり…
北山:親亀の上に子デバ亀を乗せて〜♪
ーハレンチ口上
端田:サンショは小粒のノリちゃんと
加藤:長くて細いジョンちゃんと
北山:丈夫で長持ちキンちゃんが〜♪
端田:へぇっ!ハンパの忠太郎でござんす!
フォークル節のイントロは、川田晴夫の
「地球の上に朝が来る」風
三人は役を演じながらお客さんを
楽しませていた。
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