女性初の抜擢真打ちと女性目線の落語
抜擢真打ちとは、自分より芸歴の長い先輩を追い越して先に真打ちになることを指す。
何人抜いたか、で期待度が知れるものらしく、本人の重圧もそれとして
話題になることもあるようだ。
その抜擢真打ちかつ女性落語家では初、という枕詞がつき
さらには古典落語の「芝浜」では、あまり語られないおかみさんの心情を
入れ込んで話題、ということで、林家つる子さんを一度聞いてみたい
と思っていた。
地元でつる子さんの講演会があるというので出かける。
主催は女性参画推進センター。はあ、なるほどと思う。
後半には落語も1席、とのことでそれはラッキーと楽しみに参加。
講演会では、自分が落語家になるまでと家族とのやりとりなどが語られる。
どうやら高校まで演劇部、大学で落研ということで、自分で表現すること
をしたかった様子。
さて、この声で古典落語かとおもいつつ、うつらうつら。
その後、休憩を挟んで落語。
客層が、何を目途に来ているのかわかりにくいこともあって
やりにくいのかな、と見ている。
とはいえ、かけ声もかかるところを見ると贔屓筋もきているのか。
会場では、はじめのうちはぼそぼそ話し声も聞こえる。
マイクテストと称して音量を上げながらさりげなく高座に注意を誘導。
噺は、なんと「紺屋高尾」。
親方の話し方やしぐさ、吉原への案内役の医者、置屋のおかみの話し方と
こてこてに振り切ったステレオタイプ。
それに加えて観客を巻き込むちょっとしたことを入れ込んだりと
寄席育ち、というのか、客を巻き込もうという貪欲さは
いまどきの若い女性とも思われない。
そして久蔵が真実を告白したあとに高尾の心情が語られる。
ここまで、笑わせながらひきつけてきて、ここが見せ場
かなりの豪腕ぶりでたっぷりと聞かせる。
会場はいつの間にか引き込まれて水をうったよう。
終わったあと、上野の寄席で来月上席のトリを10日間とる
という宣伝とともに、
おかみさんの心情をいれこんだ「芝浜」をどこかでかけること
「紺屋高尾」は今回のもの以外に、全編高尾太夫目線で作ったものも
あるということなども。
高座が終わったあとでつらつらと考える。
女性の高めの声でも語り口が様になっていれば古典を聞いていても
特に気にならない(たとえば桃花さん)。
落ちついた物腰で、新作中心の独自の路線をいき
個性と作品世界の方が際立つ(和泉さん)。
所作がきれいで、なぜか踊りながら座布団のうえで
座ったまま一周する芸(裾が乱れないのは見事)など
女流など気にもしていない堂々たる風情(こみちさん)。
男着物で女性性を出さずに骨のある古典を語る(小春志さん)。
と、私が今までに聞いたことのある数少ない落語家さんだけをみても
性差より個性の方が強いような気もする。
といっても、それは端から見ているだけなので
女流であるという不利を感じさせないように周到に噺を選んでいる
とか自分なりの工夫を入れ込んでいるとか。
女流落語家も数が増えて、いい意味で珍しくなくなったというのも
あるのかもしれない。
「紺屋高尾」はある程度の尺があり、大ネタと呼ばれる
いわゆる寄席ならトリのとれる噺である。
独演会で勝負ネタにもなる、多くの落語家さんが高座にかける噺のひとつ。
それだけに、個性の際立つ新しい工夫の噺なら話題にもなるし客も呼べる。
この人なりのちゃんとした戦略がある、ということか。
私自身は、落語は男性が男性にむけて作られたもの、とは思うものの
男性が高座にかける「紺屋高尾」に違和感を感じたことはなく
つる子さんの「紺屋高尾」を聞いたあとでも、その感想は変らなかった。
談春さんのように、久蔵の告白を横を向いて聞いている高尾太夫が
すっとひとすじ涙をこぼし、ぬしのお嫁さんにと言い出す展開でも
語られない高尾の心情とその心持ち、思い切りの良さは
言葉で限定されない分、それぞれの客のどこかに訴えて伝わりはするのだ。
借金のカタに遊郭に売られる女性が遠い昔のことになったとはいえ、
今でも借金のために、あるいは生活が苦しくて風俗に沈む女性はいて
つい最近のコロナ禍では、常になく増えもした。
いつの時代にもあるそのつらさを説明しなくても、ということもあるような気もする。
とすると、つる子さんの着眼点は、全編高尾太夫目線の噺のほうが
生かされるのかも知れない。
それにしても。
勢いのある、野心たっぷりの高座というものの持つ熱量は
なかなかいいものだ、と今回あらためて感じた。
むしろ収穫はそちらかもしれない。
なによりも、また少し、落語を聞いてみたくなった。
でも寄席は苦手なんだよなあ、いろいろな人を聞けていいけれど。
などと、考えている。