バイオエシックス輸入失敗から
バイオエシックスという学問が
かつてあった、
と言えば怒られそうだが、
生命倫理と翻訳したのは、
上智大学の青木清で
1977年の事だ。
以降、特に二千年以降。
存在感がなくなったように
僕には思える。
手続きとしての医学の倫理は、
ある意味効率と、
マンパワーのバランス程度のことになり、
それは世の中の不景気と密接に結びつく。
定住でよい、もう進歩など良い、
少しづつ停滞する日本社会へ、
などというのは学者先生の
戯言に過ぎなかった。
大学の先生という安住たる仕事あっての放言だった。
でも、よく考えれば、
今回の、感染症対策に、
バイオエシックスという観点は小さく、
政治的、薬学、人の心理と言った
知恵は動員されたが、
それをまとめるバイオエシックスとは
ならなかった。
そこには、パーソン論と言った問題。
人工中絶の問題。
といった人道的、宗教的テーマを
抱え込んでしまい、
身動きが取れなくなった、
学問自体のスピードダウンと、
思想が何かをまとめるという
価値観が下落したのもある。
そして、何より、倫理は考える時代では
なくなった。
男女平等の倫理ではなく、
男女平等のルール作りが求められる。
考えてる場合ではないし、
更に処方箋を学者が書いても的外れであったり、
よしんば正しくても、それを
実行する政治力を、大学の先生が持っている
ことはほとんどない。
象牙の塔から出ていけない人ばかりだ。
そして、実りありそうな学問。
バイオエシックスごと、
倫理は死に、
ついでに哲学も終わる
(これはポストモダンという謎ブームのせいでもある)。
そしてそこで深刻な事は、
正典(キャノン)がなくなることだ。
それは陰謀論の障壁を下げる。
信じるという事が、選択であるなら、
全ては、フリーメーソンの陰謀だと考えることも、
民主主義の選挙の制度疲労も、同じ考察になる。
どちらが正しいかは、
感想に過ぎない、
となればどちらでも良いからだ。
かくして、今必要な、倫理は手に入らない。
世界的なパンデミック。
地球環境と反グローバリズム。
陰謀論や極右政党の台頭。
そう、人は答えを求めるものである。
今生命倫理にしっかりしたモデルを
示す事が出来る人が入れば、引っ張りだこのはずだ。
だが、そんな人はいない。
とりま効率。
あとは、流れでよろ。
という医者が病院を経営する。
これは悪夢である。
個別の医者が良い人でも意味はない。
そういう恐ろしさが、
実は間近に迫る。
それに対し、エーリックフロムの
言うような自由からの逃走が始まる。
日本では、偉い人に禁止事項を決めて欲しがっている。
これは無力化の完成である。
困った事を自分たちで解決出来なくなった、
という絶望がもうあるのである。
と言ってまだ、それは完成していない。
もっと言えば完成すると、
完成した思考や組織は壊れ始める。
それは変わらないものが
この世界にはないからだ。
なので、バイオエシックスという本来
沢山の果実を付ける学問が、
例えば、反出生主義などにも接続しないのは、
勿体ないことこの上ない。
次回は、このまま、反出生主義について。
しかし、秋になってくると、
陽のいり時刻
が早くなりますね。
服を替えないといけませんね。