民藝旅館と盛岡 旧盛久旅館 イワテ歴史的建造物巡り14
盛岡市内 岩手公園から石割桜に向かう途中の道にそのギャラリーはあります。
毎年5月頭頃にギャラリー所有の家具や資料を企画展として公開しているので見学をしてきました〜
盛久ギャラリーへ
盛岡サンビルから北へ坂を登った先に見える白い建物。
この建物が盛久ギャラリーです
もともとは盛久旅館として営業しており、明治35年(1902)に役人のための宿として営業、その後昭和2年(1927)に盛久旅館として創業しました。
現在の建物は昭和28年(1953)に民藝建築家の伊東安兵衛(東京のたくみ工芸店)の設計で改築されたものです。(施工は直営)
外観
縦に空いた窓、
これは虫籠(むしこ)窓と呼ばれるらしく多くの民藝建築に見られる特徴です
門の内側も虫籠窓が使われており、庭の様な入口、まわりはビルが建ち並ぶ地域ですが、そんなことを感じさせない空間。
時間を忘れて居てしまいそうになります。
この看板の書はレプリカですが棟方志功が書いたもので、文化人が多く泊まった旅館であることを伝えるものの一つです。
ちなみに本物の看板は劣化を防ぐためにちゃんと仕舞っているそうなので安心です〜
それでは中へ入ります
玄関
旅館の面影が残る建物内、
さっそく見たいところが多く、この時点で写真を撮りまくる自分。
まず脇には受付の窓口らしき内窓があります
その窓の内側の部屋はかつての帳場だそう
その下の棚はカウンターの役割もあったのでしょう。
ギャラリー
現在ギャラリーとして使用されているこの部屋は喫茶軽食堂として設計され、カウンターなどがあったそう
しかし食堂として利用された期間は昭和28年(1953)から昭和42年(1967)までとのことで、
その後は調理場として改装して利用していたらしいです。
金蘭帳と呼ばれる帳簿には盛久旅館に宿泊した文化人のサインが書かれています。
この小襖は旅館の部屋で使われていたもので宇山博明の漆書です。
書宮沢賢治の童話「鹿踊りのはじまり」の一節が書かれております。
多くの文化人の痕跡が見られる盛久旅館
伊東安兵衛の痕跡はギャラリーでも見られます
伊東安兵衛設計で縦に回転させて採光、通風を調整することができるものです。
調理場として利用していた時には外され食器置き場として使われていました。
外された障子は倉庫に収納されていたこともありギャラリーとして営業する際には24本無事に戻せたそうです。
照明はかつてはガラス張りだったそうですが、安全性や電気交換をやりやすくすることなど考えて現在はプラスチックに置き換えられています。
こちらの玄関にも敷石があります
現在の床板はギャラリーにする際につけたものでその下にも敷石が続いています。
続いて第2会場である応接サロンへと行きます
応接サロン
応接サロンへ行く前に脇の廊下を見学。
この廊下は改築の時、一部は手を加えられていますが、それ以前の状態も残っているそうです。
床や天井、御手洗のドアが改築以前の状態らしいです。
それでは応接サロンの部屋へ…
おぉー!
レンガの暖炉や梁、家具など統一感があり、和と洋が綺麗に混ざりあった様な空間です。
入ってすぐ目の前にあった椅子。
こちらはなんと伊東安兵衛がデザインしたもので、この建物の設計に合わせて作ったものでしょう
その向かいにある椅子はバーナード・リーチのデザイン指導で松本民芸家具で製作されたものです。
バーナード・リーチはイギリスの方ですが度々日本に訪れ松本民芸家具で指導を昭和28年(1953)頃から行っていたそうです。
また、盛久旅館にも宿泊したこともあるとのこと。
天井に見える梁には手作業で彫ったことがわかるノミの跡がついています。
縦の線がその跡です。
改築時から部屋の内装は変わっておらず、築70年以上経過した今でも襖や床板、扉など民藝建築の美しさを保っています。
続いて紹介する部屋は去年令和5年(2023)に紺スタに合わせて公開された一階たくみの間です。
たくみの間
この部屋は去年のみ公開されており、今後の公開は未定とのことです。
入って右側に小上りの畳の空間、左側には押入れがあります。
今回の記事では私の知識不足でうまく伝えられなかった点が多くあったように感じます。
スミマセン…(ToT)
盛岡の中心地で展示会など様々なイベントを行っているギャラリー、通りかかった際には覗いてみてはいかがでしょうか?
今回さまざまな事を教えてくださった盛久ギャラリーさんありがとうございました
m(_ _)m
【建造物DATA】
名称:旧盛久旅館
設計:伊東安兵衛
年代:改築昭和28年(1953)
住所:〒020-0021
岩手県盛岡市中央通1丁目1−35
【施設DATA】
名称:盛久ギャラリー
住所:〒020-0021
岩手県盛岡市中央通1丁目1−35
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?