米国大学院留学記 - 学ぶことに遅すぎることはないと教えてくれた人たち
退職して進学
37歳の私は博士号取得を目指して、12年間勤めた会社を退職し、妻と6歳と5歳の娘を連れてアメリカへ渡りました。退職してまでの遅すぎると思える留学にあたって、大きな不安が2つありました。一つ目は、大学卒業後12年が経ち、研究経歴も業績もない自分に博士号をとれる資質と能力があるのかということ。二つ目は博士号が取得できたとしても、40歳過ぎになる自分に学んだ専門を生かした就職はあるのかということでした。
自分の過去12年間に対して何をやっていたのか、積極的な行動を起こさなかったのは自分の優柔不断さだという思いもありました。そして留学後の再就職やその後の人生の展望もはっきりせず、間違った決断ではないかという不安を持ちながら、会社に退職届を出しました。時は20世紀末、バブル景気末期に日本中が沸いていた頃でした。
米国大学教授からの手紙
1989年の春、ミネソタ大学獣医学部養豚研究グループ部長のダイアル博士から手紙をもらいました。大学院の博士課程の院生になり、彼の研究室で研究助手(research assistant, RA)として働かないか、という旨の手紙でした。まだEメールはなかった時代でした。
ダイアル博士には2年前にアメリカで会った時に、いつの日か米国大学院で勉強をしたい、という希望を伝えていたのです。その1年後、ダイアル博士は北カロライナ大学からミネソタ大学に転職・移籍しました。そして研究を手伝ってくれる院生を探していたのです。私にとって人生の大きな転換点となる手紙となりました。
当時、飼料会社に勤務し12年目の私は人生に迷っていました。このままの人生でいいのか、という迷いです。飼料会社で真面目なセールスマンとして働き、農家生産者との交流を通じて、たとえ小さなものでも、自分が創り出した技術情報で畜産業界に貢献したい、という思いが強くなっていました。どう自分の人生を変えるかに迷っていたのです。今の言葉でいうとキャリアアップに迷っていたのです。
遅すぎる進学への不安
人生100年時代は ”Life Shift”「人生戦略の変更」として2016年以降から言われ出した言葉です。人生100年とすると37歳はまだ若いのですが、当時は55歳定年の時代でした。55歳で定年になり5年ほど嘱託などで働いて60歳、つまり還暦で引退し余生を過ごす、というのが私の人生コースの漠然とした予想でした。
37歳から大学院で勉強を始め、5年で博士号を取得しても、フルで働く時間はあと13年しかありません。費用対効果で考えても、退職までしての大学院への進学は遅すぎると思われました。また40歳をこえたら再就職は非常に難しいというのが当時の考え方でした。
不安は希望に変わった
アメリカに到着しミネソタ大学に入学してみると、不思議に不安は消え、未来への希望が大きくなったことを覚えています。退職し退路を断ったことによって、前に進むという覚悟が決まったのです。さらにアメリカ各地や世界中から集まった多様で優秀な大学院生たちとの出会いは新鮮でした。アメリカという国の自由で前向きな気風が、私を後押ししてくれました。
そして世界で誰もやっていない研究で、農畜産業に貢献するという大きな希望も生まれました。エネルギーが身体に満ちてくるような気持ちになりました。また大学内で偶然出あった退職前の老教授から「大学には知の女神がいるんだよと」と、いたずらっぽく言われたのも心に残りました。
大学院生たちの中の中高年の院生
出会った大学院生たちは大きく3つのタイプに分けられました。1つ目は、学部課程を終えて継続して大学院に進学する学生たちです。このタイプには、米国人だけでなく自国政府奨学金を受けている外国人留学生も含まれます。彼らは頭脳が優れていて意欲も高く、人柄もよい俊英たちです。
2つ目は、大学卒業後3年から6年間、実社会で働いた後、キャリアアップを求めて大学院に進学してきた学生たちです。外国人留学生もいます。高い目的意識があり臨床経験や産業界での経験を持ち、生産現場を知っているのが強みです。畜産農家との接触が多い大動物臨床学科には最適な年代です。私もそうすべきだったと思います。
3つ目は、中高年の大学院生たちです。知りあった院生全体の1割程度でしょうか。私はこの部類に入りました。ほとんどが子持ちの家庭を持っています。研究の実績や業績などのバックグラウンドがない人も多い。彼らは人生での変化や何かを求めて大学にやってきたのです。そして彼らは年齢を気にしていないのです。過去にとらわれず前を向いているのです。これも新鮮な驚きでした。また、中高年の院生たちは個性が豊かでユニークな人物が多いのが特徴です。心に残る2人について紹介します。
過去を捨てたジョーンズ
ジョーンズは、シカゴの北部で五大湖の西に位置するウイスコン州から隣州にあるミネソタ大学にやってきました。ウイスコン州は「酪農の国」”Dairy country”とも呼ばれ、家族経営での酪農が盛んでした。しかし1980年代にはアメリカ西海岸カリフォルニア州などで大規模酪農経営が伸長する中、小規模の酪農家はコスト競争に負けて衰退の中にありました。
そのウィスコンシン州の酪農地帯、人より牛の数が多い田舎の村で、乳牛の臨床獣医師を20年以上やっていたのです。その田舎で彼は考えたというのです。
「ウィスコンシン州の酪農の将来の見通しは明るくない。これからは分子生物学の時代だ。そうだ、大学へ行ってもっと将来性のある分子生物学の勉強をしよう」
こう考えて、彼はミネソタ大学にやってきたといいます。1980年代に分子生物学はPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)という技術の発明で、一気に大流行したのです。現在でもPCRはコロナウイルスなどの病気の診断などに広範囲に使用されています。そして、1980年代のアメリカではPCRが使えて、分子生物学者という肩書があれば就職が簡単に決まる時代でした。大学院生たちの間でも就職に強い学問分野ということで、分子生物学は非常に人気がありました。ジョーンズは50歳を過ぎてから、それまでの酪農獣医師としての経歴を捨て、分子生物学を勉強し、PCR技術を使える分子生物学者として再就職しようとしたのです。
ジョーンズの指導教員は理学部出身で、昆虫の研究から獣医学部に転じたムルタフ博士、変わり者として有名でした。授業では難しい内容を講義し「どうせ君らには理解できないだろう」と学生の前でため息をつくような教員でした。また出席した研究セミナーでよく居眠りをするのに、質問は鋭い人でした。優秀だが、こんな偏屈な人がよく自分の研究室にジョーンズを受け入れたな、と思いました。変人は変わった人が好きなのかなあ、とも思っておりました。
ジョーンズは身長1 m 90 cmの長身で、頭ははげ上がり、豊かなあごひげがあり、善良で打たれ強い男でした。研究セミナーでの彼の研究発表での鋭い質問に対しても、
「そうかもしれない。こうかもしれない」
と言って終わってしまうのです。でも少し話をするだけで、研究内容はともかく、彼の素朴な人柄の良さだけは皆によく伝わるのです。アメリカは広く、こんな男も存在するのだと思いました。話すだけで相手に安心感を与えられる飾らない彼の人柄は、元からの素質に加えてアメリカの草深い田舎で培われたのでしょう。
変人ムルタフ博士の指導の元で彼は最新の分子生物学のテクニックPCRを使って、豚の伝染性胃腸炎の診断法を確立しました。研究対象は長年にわたって診てきた酪農牛でなく、未経験の豚でした。
彼の博士号の学位取得の前後、薬品会社から就職ための面接の誘いが殺到しました。しかし、彼は愕然(がくぜん)としたのです。面接に行っても、彼の研究内容や分子生物学の苦労したテクニック、研究論文のことなど誰もしっかりと聞いてくれないのです。そして面接相手が必ず聞いてくるのは、彼の20年以上の酪農現場での獣医師としての臨床経験でした。そして提案される職は酪農農家への獣医技術サービスの仕事でした。薬品会社からすれば、分子生物学の細かい実験は他の研究者でもできる。彼の酪農現場での長年の臨床経験と農家から信頼される善良な人柄こそ輝いて得難いと見たのです。
「捨てたはずの乳牛の臨床獣医師時代の経験ばかりがもてはやされて、苦労した大学院時代の経歴があまり高く評価されないのは悔しい。オレは分子生物学の研究者として再就職したかったんだ」
と、就職前にぼやいていました。
まるでメーテルリンク作の童話「青い鳥」のような話です。童話では、貧しい家の子供チルチルとミチルの兄妹が、幸福の青い鳥を探していろんな世界を旅します。しかし青い鳥は見つかりません。やがて二人は気づくのです。探していた青い鳥は、すでに自分たちの家の中にいたのです。
彼の望んだ新しい能力のポテンシャルは、彼がすでに持っていたのです。そして大学院博士課程における教育と博士号は、彼の経歴を再活性化する触媒だったのです。そして彼の酪農現場での経験とそこで培われた善良な人柄は唯一無二のものだったのです。
ジョーンズは大学院卒業後、大手薬品会社の酪農技術サービス部長になり、ミネソタ大学で催される酪農関係のセミナーや学会にもよく来ていました。素朴で善良でおおらかな人柄に、重厚さが加わっていました。捨てたはずの過去の経歴は、現在の仕事では輝いているのです。こんなキャリアの生かし方と人生もあるんだなあと思いました。
深く勉強したいレイ
もう一人の中高年大学院生のレイもまた、20年以上の酪農における獣医臨床の経験を持っています。私の知る酪農関係の獣医師たちは、「俺たちがこの国の農業を支えている」という静かな自負をもっています。酪農家に寄り添い、問題に対して的確なアドバイスをしてきた獣医師人生を送ってきたことがわかる人でした。静かな口調ですが、言葉に自信がありました。
「自分の3人の子供がそれぞれ大学に入り親離れした。もう一度、自分も大学で勉強したいと思ったんだ」
と、とぼけながら語ってくれました。
そして、20数年の臨床経験で、ずっと疑問に思っていた乳牛の栄養摂取が繁殖に与える影響を深く勉強するため、大学院修士課程に入学したというのです。当時はまだ乳牛の栄養摂取と繁殖成績の関係がはっきりと科学的に証明されていなかった時代でした。
レイは大学院生であると同時に教育助手でもあったため、教壇にも立ちました。
「臨床獣医師としての現場経験や、苦労を通じて得た知識と知恵を学生に教えていきたい。大学一筋の教授たちとはひと味違う講義ができていると思う」
と語ってくれました。
レイは獣医学部で一番貫禄があり、アメリカに来たばかりの私は、ネクタイ姿で教壇に立つ姿から彼を教授だと思っていました。反対に、彼の指導教員は教授になったばかりで、ジーンズ姿も若々しいモマント博士でした。二人が廊下で立ち話をしている図は、老教授と若い大学院生という日本のパターンは、米国大学院には当てはまらないことが分かりました。
臨床系の講義は現場経験の有無でずいぶん異なります。講義ではどこか自信なさそうな研究者モマント博士に比べ、レイの臨床繁殖学の授業は、生産現場を知る者の迫力に満ちており、米国人学生も感心していました。アメリカでは学生からの授業評価はストレートで手厳しいのですが、彼の授業の評価は常によかったのです。
米国大学院の修士課程には2種類、「研究プロジェクトあり」と「なし」の2コースがあります。研究プロジェクトありコースでは、特定の仮説に基づいて研究実験をして論文を書きます。
一方、研究プロジェクトなしコースだと、幅広い分野で授業科目を取得した後、特定の課題に応じた多数の研究論文を読み、それらをまとめ、自分の意見も交えた総説レポートを書きます。学部を卒業し、さらに専門を深く学びたい人にはいいコースです。レイはこのコースで酪農牛栄養学と繁殖学について学び、「酪農牛の栄養摂取がその後の繁殖成績に及ぼす影響」という総説を書いて卒業しました。そんな修士課程の使い方もあるのかと思いました。
修士号取得後、レイはアメリカ中央部のコロラド州にあるコロラド大学獣医学部の教育専門の教員に採用されました。研究業績はほとんどなく、博士号も取っていなかったのですが、経験と人柄、そして臨床教育への熱意が大きく評価され雇用されたのです。レイは20年以上にわたる経歴を捨てるのでなく、その経験と経験から学んだ知恵をティーチングのための技術と知識に昇華させたのです。彼の生き方、職の選び方には学ぶものがありました。
中高年で学ぶ良さは
アメリカは自由の国だなあと思います。50歳を超えていようと、研究経験がなかろうと、本人がやりたいという意志があれば進学できるのです。そして米国大学院に遅すぎるという言葉はないのです。学ぶことに年齢を問わないのです。
日本では年齢を理由に限界を決めやすいのですが、志(こころざし)と意欲が大切です。健康寿命は延びています。中高年はまだまだやれるのです。さらに退職しての留学は退路を断っているので、前進力があります。ただし、退職しての決断には失敗した時のリスクがあります。リスクへの備えとしての金融資産での蓄えは必要でしょう。
大学院時代の初めのころ、レイやジョーンズのように私よりずっと年上の学生がいること、中高年で研究経験のない院生たちがいることは、私にとって大きな救いでした。彼ら中高年院生の存在は、学部学生や学部を卒業してすぐの院生にも大きな刺激を与えたようです。若い彼らは、レイやジョーンズの実社会での失敗談や成功談に目を輝かせて聞き、生涯教育の実例を見ることができました。また若くして教授になった教員にとっても、彼らの現場経験は教育上の良い助けとなったのです。
10年ほどで、レイやジョーンズとも音信が途絶えました。彼らはたぶん引退生活に入ったと思われます。50歳を超えてから大学院で学んだこと、アメリカ人の平均寿命(1975年当時の男性は68歳)は短く、引退後の生活を重視する文化を考えれば、彼らが働いた期間は短かったでしょう。
しかし、人生の中・後盤での思い切った決断と転進は、後半の人生を前向きで実り多いものにしてくれただろうと思います。平凡に生きる人生に輝くような思い出ができたのです。また彼らにはやろう思っただけで、やらなかった人生への後悔はないのです。
何よりも彼らは、当時の私たちを勇気づけだけなく、世代を超えて彼らの子供や子孫そして関係した人たちに「学ぶことに遅すぎることはない」の良きロールモデルを示せたのです。彼らの志と意欲に大学の知の女神が微笑んだのです。
*イラストはMage.spaceでAI生成